怪談:妖しい物の話と研究


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奇談
1 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/08/04(月) 15:16:03.69 ID:XRRvBaIb0
【出版依頼】
【著者】ラフカディオ・ハーン
【翻訳編集】小林幸治
【予定価格】100円

小泉八雲の「怪談」に収録されていない、霊的な話や不思議な話を収録して
電子書籍にします。

話の画像はいつでも募集してます。謝礼はカラー2000円、モノクロ1000円、
著作権は絵師に残り、私に利用権を与え、著作権者は他所で利用しても良い
という方向です。

2015/03/09修正と追記
内容を追加した改訂版の無料アップデートはKindleの規約上不可能であると分かりました
14話程度で1冊作り3巻の電子書籍にする予定です
最後に全話まとめて1冊作り、計4冊にしようかと思います

59 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/09/24(水) 21:49:00.95 ID:r/qVr9WZ0
>>51でムジナについて触れましたが、「怪談」の古い訳のPDFが
有ったので解説を読んでみたところ、小泉八雲の「ムジナ」は
原話ではカワウソになっているのだそうです。

そういえば子供の頃に見た特撮「変身忍者嵐」に顔盗りカワウソ
という妖怪(怪人?)が出ていたな〜と思い出しました。

のっぺらぼうは脅かすだけでなく、顔を盗る危険な妖怪なのかも。

60 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/03(金) 23:50:51.13 ID:t13QPURV0
忠五郎の話

 長らく前、江戸の小石川地区に、鈴木という名前の旗本が
住んでいた。彼の屋敷は江戸川の岸に位置していて、中野橋
と呼ばれる橋からそう遠くない。鈴木の家臣の中に足軽[1]の
忠五郎という名前の者がいた。忠五郎は凛々しい若者で、とても
愛想が良く聡明で、同僚達から大変好かれていた。
 忠五郎は鈴木に仕える数年の間、よく自己を律し、これといった
間違いも見当たらず勤めを続けていた。しかし、とうとう忠五郎が
毎晩庭の道から屋敷を抜け出して、夜の明ける少し前まで外泊
する習慣を、別の足軽が見付けた。はじめこの奇妙な行動に
ついては、彼の不在によって正規の勤めにこれといった支障が
出る訳では無く、色恋沙汰による物だと思われたので何も言わな
かった。しかし、しばらくする内に彼が青白い顔をして衰弱して見え
始めると、同僚達は重大な過ちを犯しているのを疑い、やめさせよう
と決めた。そういう訳で、ある晩、ちょうど彼が屋敷を密かに抜け出そう
とする時に、初老の家臣が傍らに呼んで言った──
「おい、忠五郎、お主が夜ごと出掛けて朝方まで外泊しているのは、
我々も知っておるが、見たところ余り具合が良くないようだ。間違った
付き合いを続けて健康を害してないかと皆が心配しておる。お主の
振る舞いについてまともな申し開きが出来なければ、この問題を上役
に報告する義務が有ると思っている。何が有っても我々はお主の同僚
であり友人だ、だからこそ何故この屋敷の慣例を破って、夜中に出掛け
て行くのか知らねばならん。」
 忠五郎はこの言葉に、非常に当惑して不安な姿を見せた。が、少しの
沈黙の後、同僚に促されて庭を通り抜けた。それから二人は、人に
聞かれず休むのに都合の良い場所を見付けると、忠五郎が立ち止まって
言った──
「今、何もかも話してしまおうと思いますが、あなたには秘密を守って頂く
ようお願いしなくてはなりません。これから話すことを他所でされると、
私に大きな不運が起こるかも知れません。

61 :忠五郎の話2 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/04(土) 00:02:00.96 ID:rF/Ax54J0
「それは、先頃の早春のことです──およそ五ヶ月くらい前──その
頃、初めて夜に外出し色恋の付き合いを始めました。ある晩、両親を
訪問した後、屋敷へ戻る途中に、正門までの道からそう遠くない所で、
女がひとり川岸に立っているのを見掛けました。彼女は高い身分の人
がするような服装をしていたので、こんな時間に女がひとりで立派に
着飾って立つ必用が有るとは、おかしな事だと思いました。けれど、
まともに問い掛けようとは思わず、黙って通り過ぎようとすると、前に
出て私の袖を引っ張ったのです。その時私は彼女が非常に若く魅力的
なのが分かりました。『橋の所まで、ご一緒しませんか』彼女は言いました、
『あなたにお話しすることが有ります。』彼女の声は非常に落ち着いて
いて感じが良く、微笑みながら話し、その微笑みに抗うのは困難でした。
そうです、私は彼女と一緒に橋まで歩き、道々話してくれたのですが、
彼女は屋敷に出入りする私をよく見掛けて、好感を持ってくれていたの
です。『あなたを夫にしたい。』彼女は言いました──『もし、あなたが
私を好いてくれるなら、お互いをとっても幸せにできるでしょう。』私は
どう答えたら良いのか分かりませんでしたが、彼女をとても魅力的に
思いました。橋に近づくと再び彼女は袖を引っ張り、堤防を下った川の
ごく端の位置まで案内しました。 『一緒にいらっしゃい』そう囁いて私を
水の方へ引っ張りました。ご存知のように、そこは深くなっているので、
急に彼女が恐ろしく思えてきて、引き返そうとしました。彼女は微笑み、
私の手首を掴んで言いました、『あら、私と一緒なら恐れることはありま
せんよ。』どういう訳か、彼女の手に触られると子供よりも無力になって
しまうのです。夢を見ている時は走ろうとしても手や足を動かせない、
そんな感じでした。水中深い所へ彼女は歩を進めて私を引き寄せました
が、私は見えも聞こえもせず、明かりに満ちた大きな宮殿が見えてくる
まで、彼女の傍らを歩き通した自分に気が付く以上のことは、何も感じ
ませんでした。濡れもせず冷たくもなく、回りの何もかもが乾いて暖かく
美しかったのです。どこに居るのか、どうやって来たのか私には理解
できませんでした。女は私の手をとって、部屋から部屋を通り抜け──

62 :忠五郎の話3 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/04(土) 00:04:54.64 ID:rF/Ax54J0
どれも空っぽではあっても、非常に立派なたくさんの部屋を通り過ぎ──
千畳敷の客間へ入るまで私を導きました。ずっと先の端まで灯りが燃や
された大きな床の間の前には、宴をするように座布団が敷かれていました
が、お客は見当たりませんでした。彼女は私を床の間の傍《そば》の上座
まで案内し、私の前の自分の席につき言ったのです。『これが私の家、
ここで一緒に幸せになれるとお思いになりますか。』彼女は訊ねると共に
微笑み、私は彼女の微笑みが世界中の他の何よりも美しいと思い、心から
答えました『はい……』と。その瞬間に私は浦島の話を思い出し、彼女は
神の娘かも知れないと想像して何かを訊ねるのが不安になったのです
……間もなく侍女達が入ってきて酒とたくさんの皿を運んで私達の前に
並べました。それから私の前に座った彼女が言いました。『今夜は私達の
婚礼の夜になるでしょう、あなたは私を好いているのですから、これは私達
の婚礼の披露宴です。』我々はお互いに七生《しちしょう》の誓いをし、宴の
後で、準備の整った新婦の部屋へ案内されました。
「朝のまだ早い時刻に、彼女は私を起こして言いました。『愛しい人、今あなた
は真実私の夫ですわ。けれどもあなたには言えない、訊《き》いてもならない
理由によって、私達の婚礼は秘密のままにしておく必要が有るのです。あなた
が夜明けまでここに留まると、お互いの命に関わる犠牲が出るのです。
そういう訳で、お願いですから、今あなたの主の家へ送り返さなくてはならない
からといって、お気を悪くなさらないでくださいね。あなたは今晩再び、私の元へ
おいでになれるのです。これから先毎晩、初めて会ったのと同じ刻限にです。
いつも橋の所でお待ちになっていて下さい。そう長くはお待たせしませんから。
ただ何よりも覚えていて頂きたいのは、私達の婚礼は秘密にしなくてはならない
こと、もしそれについてお話しになったら、きっと永遠のお別れになるでしょう。』

63 :忠五郎の話4 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/04(土) 00:07:33.01 ID:rF/Ax54J0
「私は全てのことに従う誓約をしました──浦島の悲運を覚えていましたから
──そして彼女は全てが空っぽで美しいたくさんの部屋を通って、私を玄関
まで連れて行きました。そこで再び彼女が私の手首を掴むと、またたく間に何も
かもが真っ暗になって、中野橋近くの川岸にひとりで立っている自分に気が付く
までは、何も分かりませんでした。それから寺の鐘がまだ鳴らない内に、屋敷へ
戻りました。
「夜になって指定された時間に再び橋へ行くと、彼女が私を待っていました。彼女
は以前のように私を水の深みへ連れて行き、そして素晴らしい場所で夫婦の夜
を過ごしました。それから毎晩、同じように会って彼女の元で宴をしました。今夜
も間違い無く彼女は私を待っているでしょう、彼女を失望させるくらいなら死んだ
方がましですから、だから私は行かなくてはならないのです……ですが、重ねて
お願いさせて頂きます。友よ、私が語ったことについては、決して誰にも話さない
でください。」

 年長の足軽はこの話に驚き心配した。忠五郎は真実を語っているのだろうが、
この真実は嫌な可能性を示しているように感じた。おそらく体験の全体は幻覚
であろうし、幻覚は悪意に満ちた結果を狙って、何か邪悪な力によって作られた
のだろう。とは言え、本当に魅入られているのなら、この若者を非難するのは
気の毒であるし、強引な口出しは良くない結果を招くと思われた。そうして足軽
は優しく答えた──
「話しはせんよ、お主の言ったことは──お主が無事に生き続けている限り、
最後まで決してな。行って女に会うが良い、だが──その女には用心しろ。
わしはお主が悪霊か何かに騙されているのではないかと心配しておる。」
 忠五郎は老人の忠告に微笑だけを返して、急いで去った。数刻の後、彼は
妙に落胆した姿で再び屋敷へ入って来た。「あの女に会ったのか」同僚は
囁いた。「いいえ、」忠五郎が返した「彼女は居ませんでした。彼女が居ない
なんて、初めてのことです。もう二度と会ってはくれないと思います。あなたに
話したのがまずかった──約束を破った私がまったく馬鹿でした……」彼を

64 :忠五郎の話5 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/04(土) 00:10:06.31 ID:rF/Ax54J0
慰めようと、いたずらに話を逸らしてみた。忠五郎は寝転んで、それ以上ひと言
も口を利かなかった。彼は悪寒がするかのように、頭から足まで全身で震え出した。

 寺の鐘が夜明けの時刻を告げると、忠五郎は起き上がろうと試みて、再び意識
を無くした。彼が病んでいるのは明らかであった──それも瀕死の病である。
とある漢方医が呼び寄せられた。
「何故この人には血液が存在しないのだ。」注意深く診察した後、医者は声を荒げ
て言った──「存在しないのに血管を水が流れている。彼を救うのはとても難しい
だろう……これは一体どんな禍《わざわい》なのですか。」

 忠五郎の命を救うため、出来ることの全てが行われた──血管の中を除いて
だが。彼は日が沈むように死んだ。それから同僚は話の全体を繋ぎ合わせて
みた。
「ああ、大いに疑わしいでしょう。」医者は大声で言った……「彼を助けられる力は
存在しません。あの女に破滅させられたのは彼が初めてでは無いのです。」
「あの女とは誰です……いや何ですか。」足軽が訊ねた──「妖狐ですか、」
「いいえ、あの女は太古の昔からこの川で狩りをしているのです。彼女は若い
血を好みます……」
「蛇女ですか──龍女ですか、」
「いえいえ、あなたが日中に橋の下のあの女を見ようとすれば、彼女はとても
忌まわしい生き物の姿を見せるでしょう。」
「どういった類いの生き物ですか。」
「ただの蛙ですよ──大きな醜い蝦蟇《がま》。」



[1]足軽は兵士では最下級の家臣。

65 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/04(土) 00:27:46.62 ID:rF/Ax54J0
Kotto(骨董)よりThe Story of Chugoroでした。

夜中に怪しい女の人から声を掛けられたのは梅津忠兵衛と
同じなのに、この理不尽な違いは何だろうと思ってしまいます。

さて、奇談用の話も10話翻訳できたので、電子書籍の出版
準備をしたいところですが、同時に改訂版出版予定の怪談
虫の研究の蟻の翻訳が仕上がりません。

蟻の翻訳をしつつ、他の話も少し翻訳するかも知れません。

66 :普賢菩薩の伝説1 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/15(水) 18:52:33.59 ID:mjHdshVn0
普賢菩薩の伝説

 かつて非常に信心深く博学な性空上人《しょうくうしょうにん》
という僧侶が、播磨の国に住んでいた。長年に渡って法華経の
普賢菩薩〔ボーディサットヴァ・サマンタバドラ〕の章を黙想し、
かつ朝夕の祈祷に使用するのを日課としていたから、いつか聖典
に描写された姿の生身のような普賢菩薩を拝する許しを得られない
ものかと思っていた[1]。

 ある晩、お経を読んでいる最中に睡魔が彼を打ち負かし、脇息[2]
にもたれたまま眠りに落ちた。それから夢を見て、普賢菩薩を見る
ためには、神埼の町に住む遊女の長者[3]という者の娼館へ行くべき
だと、夢の中の声に言われた。眠りから醒めると早速神埼へ行く決意
をし──できるだけ急いで仕度をして、翌日の晩には町へ到着した。
 彼が遊女の館に入った時、既にたくさんの人達が集まっているのが
分かった──その大部分が美貌の女の評判に釣られて神埼へ来た
京の若者達であった。彼らが飲食をする前で、遊女は鼓《つづみ》
(小さなハンドドラム)を非常に巧みに使って演奏しながら歌った。彼女
が歌ったその曲は室積《むろづみ》町の有名な神社についての日本の
古い歌でこんな詩だった──

周防《すをう》室積の中なるみたらい[4]に
風は吹かねども
水の面《おもて》に波のたたぬ時なし

67 :普賢菩薩の伝説2 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/15(水) 18:54:23.58 ID:mjHdshVn0
 甘美な声が皆を驚きと喜びで満たした。離れた所で耳を
傾ける奇妙な気持ちの僧侶は、突然娘にじっと見つめられ
ると、瞬時に彼女が六本の牙を持った雪のように白い象に
乗る普賢菩薩に姿を変えて、額から宇宙の果てを越えて
貫き通すかのような光の束を放射するのを見た。彼女は
依然として歌い続けた──が、その曲も今では様相を
変えて、僧侶の耳にはこのような言葉がやって来た──

滅私静穏なる大海に
五堕六欲の風は吹かねども
深く面《おもて》に広がる悟道の大波うねらぬ時なし

68 :普賢菩薩の伝説3 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/15(水) 18:57:46.81 ID:mjHdshVn0
 神々しい輝きのまぶしさに僧侶は目を閉じたが、まぶたを
通してまだ明瞭にその映像が見えた。それから再び開けて
みると、それは過ぎ去り、ただ鼓を持った娘が見え室積の水
についての歌が聞こえるだけであった。しかし彼は、目を
閉じる度に六牙の象に乗った普賢菩薩が見られ、滅私静穏の
神秘な歌が聴けるのに気が付いた。その場の他の人達には、
遊女が見えているのみで、顕現を拝してはいなかった。
 それから不意に歌い手は宴の部屋から姿を消した──いつの間に
どうやってかは誰にも言えなかった 。その瞬間からどんちゃん騒ぎ
は止み、歓楽の場は陰気な物になった。あても無く娘を待ったり
捜したりした後、大きな悲しみの中で座は散々《ちりぢり》に
なった。一番最後に立ち去った僧侶は、その晩の感動に戸惑った。
しかし、ろくに門を通過しない内に遊女が姿を現して言った──「主様、
今夜ご覧になったことは、まだ何方《どなた》にも言ってはなりんせんよ。」
そしてこの言葉と共に彼女は消え去った──辺り一帯に芳《かぐわ》しい
香りを残して。

***

 ここまでの伝説を書き残した修業僧は、次のような見解を述べて
いる──遊女の身分は低く哀れなもので、かつては男の色欲に奉仕
する運命にあった。したがって、そのような女が菩薩の化身や転生
かも知れないと誰が想像するだろう。だが忘れてはならない、如来
や菩薩はこの世に無数の異なる形を選んで顕現できると、高貴な
慈悲のためなら、粗末極まりなく卑しむべき姿でさえも、このような
姿で危険な幻から衆生を救い、正しい方向へ導き救済することができる。

69 :普賢菩薩の伝説4 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/15(水) 19:02:10.01 ID:mjHdshVn0
[1]僧侶の願望は、おそらく「普賢菩薩の激励」
(カーン氏訳の「東洋の聖典」─433から434
ページ─の妙法蓮華経に見える)と題された章
に記述された約束に触発されたのだろう──「その
時、普賢菩薩は領主に言った……『この法門に
専念する伝道者が歩を進めるであろう時、お殿様、
私は六牙の白象に跨がり、この法門を守護する
ために、その伝道者が歩む場所へ向かうでしょう。
そして、この法門に専念する伝道者がひとつの
言葉や音節しか思い出せない時、私は六牙の白象
に跨がり、その伝道者に私の顔を見せこの真理の
全体を繰り返すでしょう。」──しかし、この約束に
当てはまるのは「時の終り」である。
[2]脇息は詰め物をした肘掛けもしくは腕置きの一種
で、僧侶が読み物をする時に片方の腕をもたれさせる。
とは言え、そのような脇息の使用は仏教の聖職者
に限定されない。
[3]昔の遊女は、高級娼婦であると同時に歌姫で
あった。「遊女の長者」という用語は、この場合単純に
「一番(最高)の遊女」という意味だろう。
[4]みたらい。みたらい(みたらし)は──石か青銅の
──水溜《みずため》または水盤に付けられる特別な
名前で、神道の社の前に置かれ参拝者が祈願の前に
唇と両手を清める。仏教徒の水溜に、そのような作法は
無い。

70 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/15(水) 19:17:34.11 ID:mjHdshVn0
※古い物語の本「十訓抄《じっくんしょう》」より

Shadowings(影)よりA Legend of Fugen-Bosatsuでした。

冒頭に注釈を入れるのを忘れていました。

歌詞については、検索した十訓抄の一部を参考に英文から
それっぽく意訳しました。
十訓抄に載ってる歌詞は次の通り

周防むろつみの中なるみたらゐに、風は吹ねとも さゝら波たつと、
實相無漏の大海に五塵六欲の風は吹ねとも、随縁真如の波のたゝぬ時なしと、

これに対する小泉八雲の英文は
Within the sacred water-tank of Murozumi in Suwo,
Even though no wind be blowing,
The surface of the water is always rippling.

On the Vast Sea of Cessation,
Though the Winds of the Six Desires and of the Five Corruptions never blow,
Yet the surface of that deep is always covered With the billowings
of Attainment to the Reality-in-Itself.

当初は十訓抄の詩をそのまま持ってくれば良いと考えて
いましたが、英文と比較すると微妙に意味が違うみたいなので、
自分で訳しました。誤解していなければ良いのですが・・・

71 :川の子供1 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/21(火) 21:33:24.46 ID:/8/M4UZA0
川の子供

 河童は正確には、海の妖怪ではなく川の妖怪だが、河口
近くの海にだけは出没する。
 松江からおよそ2キロ半、河内と呼ばれる川が通る河内村
という小さな村に、カワコの宮と呼ばれる小さな祠が建っている
(出雲の一般の人々の間では河童という言葉は使われず、「川の
子供」の意味でカワコと表現する)。この小さな社には河童が署名
したと言われる文書が保管されている。話は昔へ遡るが、その
河童は河内を棲みかとし、多くの村の住人や家畜を捕らえ殺して
暮らした。しかしながら、ある日馬が水を飲みに川へ入ったところを
捕まえようとして、どうした拍子にか河童はその頭を馬の腰帯の下
に巻き込んでしまい、怯えた馬が慌てて水から出て地面に河童を
引きずった。そこで馬主と数人の百姓が河童を捕まえて縛り上げた。
聞こえるように許しを請い地面に頭を下げる化け物を見るために、
村人の全員が集められた。百姓達はすぐに殺してしまおうと望んだが、
たまたま村長であった馬主はこう言った「河内村のために、人や家畜
に二度と悪さをしないと誓うなら、それで良い。」誓約の様式をした
書き物が用意され、それを河童に読み聞かせた。そいつが言うには、
字は書けないが文書の最後へ手に墨を付けた手型を押し、それを署名
としよう。これを守ると同意して、河童は解き放たれた。その時から後、
河内村の住人や動物が妖怪に襲撃されることはずっと無かった。

72 :川の子供2 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/21(火) 21:36:15.01 ID:/8/M4UZA0
 かつて出雲の持田の浦と呼ばれる村に、たいそう貧しく子供を
持つことを怖れる農夫が住んでいた。そして妻が子供を産むたびに
川へ投げて、死産であったと偽りを述べた。時には息子であり、
時には娘であったが、いつでも幼子は夜中に川へ投げられた。
このようにして六人ほど殺された。
 しかし、時は流れ、農夫は自分が少し裕福になっているのに
気が付いた。お金で土地を買い賭けをできるようになった。そして
とうとう、妻が七人目の子供を産んだ──男の子だった。それから
男は言った「今、我々は子供を養えるし、年を取った時に手助けして
くれる息子が必要だ。それにこの子は綺麗だ。だからこの子を育てよう。」
 そして幼子は育つと共に、毎日冷酷な農夫は自分の心に驚きを
深めるのであった──日々息子への愛が深くなっていくのに気が
付いたのだ。
 ある夏の夜、彼は子供を腕に抱いて庭を散歩していた。小さな子は
五ヶ月になっていた。
 その夜は大きな月が出ていてとても美しく、農夫は感嘆の声を上げた──
「ああ、今夜めずらし、え夜《よ》だ。」
〔ああ、今夜は本当に素晴らしく素敵な、美しい夜だ。〕
 その時幼子は彼の顔を見上げて 、大人の話し方で話すように言った。
「どうして、お父さん、わしを最後に投げ捨てた時も、ちょうど今夜の
ようで、月の見掛けは同じではありませんか。[1]」
 以後その子供は、他の同じ年頃の子供達そのままの話しぶりである。

 農夫は出家した。


[1]「おとつぁん、わしをしまいにしてさした時も、ちょうど今夜のよな月夜だたね。」
──出雲の方言。

73 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/10/21(火) 21:54:03.16 ID:/8/M4UZA0
Glimpses of Unfamiliar Japan(知られざる日本の面影)
から民話を語られている部分を抜き出しました。

出雲地方では河童の事をカワコと言うのは知識として知って
いますが、いまだ河童をカワコと呼ぶ人には会った事が有り
ません。日常会話で河童が話題になる事は有りませんから

カワコを棒読みするなら、発音はかーこになるはずですが、
アクセントがワに有るからカワコなのかも知れません。

子捨ての話は持田の浦という地名が何処なのか今ひとつ
分かりませんが、松江市に西持田町という地名が有ります
から、その周辺の話なのかもしれません。

注釈の出雲の方言というのは、今ひとつ方言という感じが
しませんが、「し」を「す」に読み替えるとそれっぽくなるかも
しれません。

なお「我々」は出雲風に訛ると「わーわー」もしくは「わーわ」
となります。今でも年配の人はこの発音をします。

74 :破られた約束1 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 22:28:48.45 ID:YQx3cNNR0

※出雲の伝説



「私は死を怖れません。」死にかかった妻が言う──「今、ひとつだけ
心配な事が有ります。この家の私の立場に、どなたがお座りになる
のか、それが知りとうございます。」
「おまえ、」悲痛な声で夫が返す「永遠にわが家でおまえの立場に
座る者は、誰もいないだろう。わしは決して、決して再婚をしない。」
 この時の言葉は、命を失いそうな女を愛していたので、心からの
話しである。
「侍の信念に誓って、でございますか」弱々しく微笑みながら訊ねた。
「侍の信念に誓ってだ。」夫が答える──やつれた青白い顔を撫で
ながら。
「でしたら、あなた」妻が言う「お庭に葬っていただきたいのです
──ふたりで向こう側へ植えた、あの梅の木々の側《そば》へ──
いかがでしょうか。ずっと前からこのお願いをしたかったのですが、
思うに、もしもあなたが再婚なさるなら、こんな近くに私のお墓が
有るのを、お好みにならないでしょう。今あなたは他の女性を、私の
後へ置かないとお約束なさいました──ですから遠慮なく望みを
話せます……私はお庭への埋葬をそれはもう強く望んでいるの
です。お庭なら時にはあなたのお声が聞こえるでしょう、それに
まだ春のお花が見られるでしょう、そう思うのです。」
「おまえが望むようにしよう、」夫が答えた。「だが今は埋葬の話を
するな、望みが全く無いほどひどい病ではない。」
「私は……ます。」妻が返す──「私は朝の内に死にます──
お庭に葬っていただけますか。」
「ああ、」夫が言う──「ふたりで植えた梅の木の陰の下へ──
そこで綺麗な墓石の持ち主となろう。」
「それに、小さな鈴を頂けますか。」
「鈴を」
「はい、小さな鈴をお棺の中に置いて頂きとうございます──
お遍路さんが持ち歩くような小さな鈴でございます。頂けますか。」
「おまえは、小さな鈴を持つことになろう──他に何か欲しい
物は有るか。」
「他には何も望みません、」彼女は言った……「あなた、あなたは
いつでも、私にとてもよくして下さいました。今私は幸せな旅立ち
ができます。」

75 :破られた約束2 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 22:30:51.62 ID:YQx3cNNR0
 それから彼女は目を閉じて息を引き取った──疲れた子供が眠りに
落ちるような安らかさであった。顔に笑みを浮かべて死んだ、この時の
彼女は美しく見えた。

 彼女は庭の愛した木の陰の下へ葬られ、小さな鈴も一緒に埋めら
れた。墓には綺麗な石碑が建てられ、一族の家紋で飾られ、戒名が
刻まれた──「大姉光影梅花院慈大海殿居士」

………

 しかし、妻の死から十二カ月も経たないうちに、侍の親類と友人は
再婚を強く奨め始めた。「お主はまだ若い、」彼らは言う「それにひとり
息子な上に子供が無いではないか。結婚するのも侍の務めだ。もし
子供の無いまま死んでみろ、ご先祖様達を忘れず、お供えをする
のは誰になるんだ。」
 多くのそうした進言によって、とうとう彼は再婚の説得に応じた。新婦
はほんの十七歳であったが、彼女を心から愛せるのに気が付いた。
物言えぬ庭の墓石が悲しげに非難するにもかかわらず。

76 :破られた約束3 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 22:33:56.50 ID:YQx3cNNR0



 婚礼から七日の間は若妻の幸せを脅かすことは何も起こら
なかった──その頃夫は、夜の城に居なくてはならない、とある
任務の命令を受けていた。最初の晩、やむを得ず妻を独りで
残したが、彼女は説明しようの無い不安を感じていた──なぜ
だか分からない漠然とした恐怖であった。寝床に入ってはみた
が眠れなかった。空気に奇妙な圧迫感があった──嵐の前の
静けさのような言い知れぬ重苦しさである。
 丑の刻あたりで、夜中の屋外から、鈴を鳴らす音が聞こえて
きた──遍路の鈴だが──どんな巡礼がこんな時刻に侍屋敷
の周辺《あたり》を通り抜けるのだろうと不思議に思った。やがて
鈴の音は、しばらく間を置いてかなり近くへ来た。どうやら巡礼
は家のすぐ近くまで来ているようだ──でも、どうして後ろから
近づくのか、道も無いのに……不意に犬が尋常ではない
恐ろしい唸《うな》りと遠吠えを上げた──そして恐怖は恐ろしい
夢を見るかのようにやって来た……鳴っているのは間違い無く
庭の中……彼女は使用人を起こすつもりで立ち上がろうとした。
が、体を起こせないことに気が付いた──動くことも──叫ぶ
こともできなかった……そして更に近く、より一層近くに、鈴の
響きがやって来た──そして、おお、どれだけ犬が吠《ほ》えた
ことか……その時、影が忍び込むように静かに、部屋の中で
女がすっと動いた──どの戸もしっかりとした状態で、どの
衝立も動いていないのに──女は経帷子《きょうかたびら》を
着て、巡礼の鈴を身に付けていた。目が無い顔で来た──
長らく死んでいたから──ほどけた髪は顔の周りに垂れ
下がっていた──その乱れたすき間を通して無い目で見て、
無い舌で話した──

77 :破られた約束4 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 22:36:51.36 ID:YQx3cNNR0
「この家ではない──お前が居ていいのは、この家ではない。ここの
女主人は、まだ私だ。帰るがいい、そして言ってはならん、お前が
帰る理由は一言も。もしあの人に言えば、細切《こまぎ》れに引き
裂いてやる。」

 そのように話しながら、化生《けしょう》は姿を消した。花嫁は
恐怖と共に意識を失った。夜が明けるまでそのままであった。

 それにも関わらず、日中の陽気な日射しの中で、彼女は見た
こと聞いたことの現実を疑った。警告の記憶はまだかなり重く
のし掛かり、見たことを敢えて夫や他の誰にも話さなかったが、
具合が悪くなって嫌な夢を見ただけともう少しで納得できる
ようになった。
 しかしながら、続く夜は疑いようが無かった。再び丑の刻に
なると、犬が唸りと遠吠えを始めた──再び鈴の音が響き
渡り──ゆっくりと庭から近づいて来た──再び聞き手は
起きて叫ぼうと無駄な努力をした──再び死者が部屋へ
入って来て非難をした──

「帰るがいい、そして誰にも言ってはならん、なぜ帰らねば
ならぬのか。もしあの人に囁《ささや》きでもしたら、お前を
細切れに引き裂いてやる……」

 今度の化生は、寝床に近寄り──その上で体を曲げて
低く呟《つぶや》き顔をしかめた……
 翌朝、侍が城から帰ると、その前で若妻は自《みずか》ら
嘆願のためひれ伏した──
「伏してお願い申し上げます、」彼女は言った「このような
申し出をする恩知らずで大変な無礼をお許し下さい。けれど
私は実家へ帰らせて頂きとうございます──すぐに出て行き
とうございます。」
「ここは楽しくないのか。」彼は心から驚いて訊ねた。「わしの
不在の間に誰かが、けしからん意地悪でもしたのか。」
「そうでは有りません──」彼女はすすり泣きながら答えた
……「けれど、あなたの妻で居続ける訳にはいきません──
出て行かねばならないのでございます……」

78 :破られた約束5 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 22:39:32.39 ID:YQx3cNNR0
「おまえや」非常な驚愕に彼は声を荒げた、「それは非常につらい
ことだ、この家でおまえを不幸にする原因にさらしいていると分かった
のだから。しかし、おまえがどうして出て行くのを望まねばならん
のか、想像すらできん──誰かがおまえに酷《ひど》い意地悪でも
したのでなければ……まさか離縁を望むつもりで言っているのでは
有るまいな。」
 彼女は震えて涙ながらに返事をした──
「離縁して頂けなければ、私は死んでしまいます。」
 彼はしばらくの間沈黙したまま──この驚くべき告白の原因となる
幾つかに、無駄な考えを巡らせていた 。それから、幾らも感情を
抑え切れないまま答えを返した──
「何の落ち度も無いおまえを、今から里の人達に返せば、恥ずべき
行いに見えるだろう。おまえの望みの納得できる理由を語ってくれる
なら──恥ずべきことの無い重要な説明であれば、どんな理由でも
わしは受け入れ──離縁状を書いてやれる 。だが、納得できる
理由を提示できなければ、離縁には応じられん──我がお家の
名誉は、非難を浴びながら維持されねばならんからだ。」
 そうして彼女は話さざるを得ないと感じて、何もかも語った──
恐怖による苦悩を付け足した──
「あなたに知らせた今となっては、あの女は殺すでしょう──私を
殺すでしょう……」

79 :破られた約束6 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 22:43:13.92 ID:YQx3cNNR0
 勇敢な男で、幽霊を信じる性分では少しも無かったが、
一時的に侍を驚かすには十分以上であった。しかし単純
で自然な問題の説明は、すぐに彼の心へ届いた。
「おまえや、」彼は言う、「今はとても不安定になっていて、
誰かが馬鹿げた話を聞かせたのだと心配している。
離縁状は渡せない、おまえはこの家で悪い夢を見たに
過ぎないからだ。だがわしは、不在の間このようなやり方
で、確かにおまえを苦悩させねばならなかったと、非常に
申し訳なく思う。今夜もわしは城に居らねばならんが、
おまえを独りにはせん。わしは二人の家臣に命令して
おまえの部屋で見張らせよう、それでおまえは安心して
眠れるだろう。彼らは立派な男だ、おまえの世話を何でも
してくれるだろう。」
 それから彼は非常に思い遣り深く、非常に愛情を込めて
話したので、ほとんど恐怖を恥じるようになり、家に残る
決心をした。

80 :破られた約束7 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 22:45:53.79 ID:YQx3cNNR0



 若妻の請求によって残された二人の家臣は大柄で度胸が
有り、誠実な男達であった──女や子供達の護衛の経験を
積んでいた。彼らは新婦の気持ちを和ませるために愉快な
話を語った。彼女は長いことお喋りをし、彼らの好ましくも
滑稽な冗談に笑い、ほとんど恐れを忘れた。しまいには眠る
ため横になり、武士達は衝立の後ろの部屋の隅の持ち場に
つき、碁[1]の試合を始めた──彼女を不安にさせないよう
囁き声だけで話した。彼女は幼子のように眠った。
 しかし再び丑の刻になると、彼女は呻《うめ》き声と共に目を
覚ました──鈴が聞こえ……それも既に近く、ごく近くまで
来ている。彼女は立ち上がり、絶叫した──しかし部屋の中に
動きは無かった──死のような静寂が有るだけで──静寂は
増大し──濃縮した静寂となった。彼女は碁盤の前に座る
武士達の元へ急行した──動きは無い──それぞれ動かぬ
目で一方を凝視している。彼女は鋭い悲鳴を浴びせ、彼らを
揺さぶったが、凍りついたようにそのままであった……

 後になって彼らが言うには、鈴の音を聞いた──新婦の
叫びも聞いた──目覚めさせようと揺さぶる彼女の試みさえ
感じていた──それにも関わらず、彼らは動くことも話すことも
できなかった。それから間もなく、聴覚や視覚を失い黒い眠り
に支配された。
……………………
 明け方に新婚の部屋へ入った侍は、消えかかった行灯の
灯りで、血の池に横たわる、若妻の頭の無い体と対面した。
やり掛けの試合を前に、座り込んだまま二人の家臣が眠って
いる。主人の叫びに彼らは跳び起きて、床の恐ろしい事態を
茫然と見つめた……

81 :破られた約束8 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 22:48:20.02 ID:YQx3cNNR0
 頭は何処にも見当たらず──忌まわしい致命傷は、切断
されたのでは無く、もぎ取られたことを示していた。血の跡は
寝室から縁側の角へ続き、そこの雨戸はバラバラに破られた
のが確認できた。三人の男はその跡を庭へたどった──
草の広がりを越え──砂の敷地を越え──菖蒲が縁取る
池の岸に沿って──杉と竹が色濃く影を落とす下へ。そして
突然、曲がった先で、彼らは悪夢の正体に対面したのだと
気付いたが、それは蝙蝠《こうもり》のようにヒューヒュー咽を
鳴らし、長らく埋葬されていた女の姿で、その墓石の前に
真っ直ぐ立っていた──片方の手に鈴をしっかり握り、もう
一方には濡れ滴る頭……一瞬の間、三人は茫然と立ち尽くし
た。それから武士の一人が、念仏を発しながら、抜刀し、その
姿に向かって斬りつけた。即座にそれは地面へと崩れ落ちた
──空っぽで四散した埋葬のぼろ布《きれ》と骨と髪──鈴は
音を立てて残骸から転がり出た。しかし、肉の無い右手は、
手首から分断されてはいたが、まだもがいていた──その
指は血の滴る頭を握り続け──ずたずたに引き裂いた──
落ちた果物にしきりと執着する黄色い蟹《かに》のハサミの
ように……

***

〔「それは酷い話だ。」それに関係する友人に私は言った。「死者
の復讐は──全て受け入れるとして──男が受けるべきだ。」
「男はそう考えます」彼は答えを返した。「しかし、女の感覚では
そうしません……」
 彼が正しかった。〕

[1]チェッカーに似た遊びだが、もっと複雑である。

82 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/14(日) 23:34:09.02 ID:YQx3cNNR0
A Japanese MiscellanyよりOf a Promise Brokenでした。

日本では珍しいゾンビの伝説ですね。数十年前に怪談が
映画化される際、この話は恐ろし過ぎて映像化出来ない
と見送られたいわく付きの話です。

今回は辞書を引いてもよく分からない単語が有りました

haunter
手元の書籍を数冊参考に見ると、全て幽霊となっていました。
しかし、phantomでもghostでも無いし、動く死体を幽霊とは
言いません。
動詞のhauntが「幽霊のように出没する」なので出没する存在
には間違い有りません。日本語では「お化け」や「化け物」
「物の怪」が適切な気がしますが、表現が大袈裟に過ぎます。
当初は「怪異」としていましたが、違和感有りまくりでした。
そういう訳で現在あまり使われていない「化生」を当てました。
妖魔詩話でも「念の化生」というタルパのような存在を指す
言葉が出て来ます。

nightmare-thing
プロの翻訳複数で、魔物となっていました。直訳すれば悪夢の
物、新妻の悪い夢に出て来た存在と解釈して悪夢の正体とし
ました。

chippered
辞書では出て来ませんでしたが、動詞のchipperは鳥がチュッ
チュッと鳴く、人がぺちゃくちゃ喋るなので、日本語のピーチク
パーチクのような擬音と解釈し、舌の無い口で喋ろうとして喉の
空洞を空気が通り笛のような音を出している状態と推測しました。

83 :守られた約束1 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/27(土) 09:52:02.60 ID:h3tzpEyN0
守られた約束


※「雨月物語」で語られていた。

「初秋の頃には帰るだろう、」赤穴宗右衛門《あかなそうえもん》が
言ったのは、何百年か前──義兄弟の若い丈部左門《はせべさもん》
へさよならを告げた時である。時は春、所は播磨国《はりまのくに》の
加古《かと》村。赤穴は出雲の侍で、生まれ故郷への里帰りを望んでいた。
 丈部は言った──
「あなたの出雲──八雲立つ国[1]──は 、かなり遠方です。ですから、
どれか特別の日にここへ帰る約束は、きっと難しいでしょう。けれど
我々にその特別な日が分かるなら、嬉しく思います。それなら、歓迎の
ご馳走の準備と、門口でお出迎えが出来ます。」
「どうして、そのような」赤穴が返す「わしは旅にはよくよく慣れたもの
ゆえ、その場に着く迄どれだけかかるか、普通に話せるが、ここでの
特別な日を確実に約束できる。我々が重陽《ちょうよう》の節句と呼ぶ日
だろう。」
「それは9月の9日ですね、」と丈部は言い──「その頃には菊の花が
咲きます、一緒に見に行けますね。どんなに楽しいことでしょう……
9月9日にお帰りになる、確かな約束ですか。」
「9月9日に、」赤穴は繰り返し、微笑みながら暇乞《いとまご》いをした。
それから彼は播磨国の加古村から大股で歩き去った──丈部左門と
丈部の母は、目に涙を浮かべて見送った。

84 :守られた約束2 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/27(土) 09:55:54.50 ID:h3tzpEyN0

「日も月も、」日本の古い諺《ことわざ》は言う、「彼らの旅に決して
休み無し。」瞬く間に月は流れ、秋が来た──菊の花の季節である。
そして9月9日の朝早く、丈部は義兄弟の歓迎の仕度をした。立派な
物でご馳走を調理し、酒を買い、客間を飾り付け、二色の菊の花で
床の間の花瓶を満たした。そんな彼を見て母は言った──「出雲国
は、せがれや、この地から百里以上もあって、そこから山を越える旅
は難儀で疲れますから、赤穴が今日帰るとはあてにできませんよ。
この骨折りは仕上げてしまわずに、お帰りを待ってからにしませんか。」
「いいえ、母上」丈部は答える──「赤穴は今日ここでと約束したの
ですから、彼は約束を破れません。それにもし到着した後から用意
し始める我々が見えたとすれば、彼の言葉を疑ったと知られて恥を
かきます。」

85 :守られた約束3 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/27(土) 10:00:16.66 ID:h3tzpEyN0

 その日は雲ひとつ無い素晴らしい天気で、空気は澄み渡り
世界は平素より千里も広がって見えた。朝の内に多くの旅人達
が村を通り過ぎた──その中には侍もいて、来る人それぞれを
丈部は注目し、一度ならず赤穴が近くにやって来る想像をした。
しかし寺の鐘が正午を鳴らしても、赤穴は現れなかった。午後の
間じゅう丈部は見続け虚しく待った。日が落ちてもまだ、赤穴の
気配は無かった。それでも丈部は木戸に留まり道を注視し続けた。
遅くれて母が彼の元へ来て言った──「人の心とは、せがれや
──諺が言うように──秋の空のように変わりやすいものです。
けれどあなたの菊の花は、明日になっても新鮮なままでしょう。
今は眠った方が良い、そして朝になって、あなたが望むなら、また
赤穴のために待てるでしょう。」「母上は休んで下さい、」丈部が
返す──「でも私は、まだ彼が来ると信じています。」それから母は
自室へ行き、丈部はいつまでも木戸に残っていた。その夜は昼間の
ように澄み渡り、空には満天の星が瞬き、白い天の川が常ならぬ
輝きを揺らめかせていた。村は眠っていた──静寂を破るのは
小川のかすかなせせらぎと、遠くから聞こえる農家の犬の遠吠え
だけであった。丈部はまだ待っていた──細長い月がほど近い
丘の向こうへ沈むまで待った。それから最後には、不安になり疑い
始めた。ちょうど家へ入り直そうとした頃、遠方に背の高い男が
近づいて来るのを認めた──とても静かで素早く、そして次の瞬間
はっきりと赤穴と分かった。

86 :守られた約束4 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/27(土) 10:04:16.07 ID:h3tzpEyN0
「おお」丈部は叫び、出迎えのために跳び出した──「朝から
今までずっと待っていました……やはり、この通り本当に約束は
守るのですね……しかしお疲れになったはずです、お気の毒に
兄上──お入り下さい──何もかも用意はできています。」彼は
赤穴を客間の上座へと案内し、低く燃えていた灯りを急いで整え
た。「母上は、」丈部は続けた、「今夜は少し疲れを感じて既に寝床
へ入っていますが、すぐに起こして参ります。」赤穴は首を振り、
小さく制止の身振りをした。「分かりました、兄上、」丈部は言い、
暖かい食べ物と酒を旅人の前へ置いた。赤穴は食べ物や酒に手を
付けなかったが、動きを止めたまま少しの間沈黙した。それから、
囁《ささや》き声で話し──母が起きるのを気遣うかのように言った──
「さて、何が有ってこのように遅れて来たのか、話さなくては
ならん。わしが出雲に帰ってみれば、人々は先の領主、立派な
塩冶候のご恩を忘れ、富田《とんだ》城を占拠する略奪者、
経久《つねひさ》に気に入られるよう努めているのが分かった。
わしは従兄弟の赤穴丹治を訪ねなくてはならなかったが、彼は
経久への配下へくだるのを受け入れ、家臣のように城下の土地で
暮らしていた。彼は経久の前でわしを土産《みやげ》とするよう
説得し、わしは専《もっぱ》ら顔も見たことの無い新しい領主を
見極めるために従った。それは度胸溢れる熟練の兵士であった
が、狡猾で残忍でもあった。それを見抜いたわしは、その臣下に
加わることはできないと知らせる必要が有った。対面から去る
わしを従兄弟に引き止めさす命令が下った──屋敷から
出られぬまま拘束するためだ。わしは9月9日に播磨へ帰る
約束が有ると断言したが、出立の許可は拒否された。わしは
それから、夜に紛れて抜け出す望みを抱いたが、四六時中
見張られていて、今日まで約束を果たす方法を見付けられ
なかった……」
「今日までですって」当惑した丈部が叫んだ──「城はここ
から百里以上ありますよ。」

87 :守られた約束5 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/27(土) 10:06:23.71 ID:h3tzpEyN0
「左様、」赤穴が返す「生者の足では1日に百里の旅は
できん。しかし、約束を守らねば、お主はわしを良く思っては
くれまいと感じ、そして、魂《たま》よく1日に千里を行《ゆ》く
〔人の魂は1日に千里の旅ができる 。〕という古い諺を思い
出した。幸い刀の所持は許されていた──こうしてお主の
元へ来られたのだ……我々の母上を大切にしてくれ。」
 この言葉と共に立ち上がり、その瞬間に姿が消えた。
そうして丈部は、約束を果たすため赤穴は自害したのだと知った。

 夜が明けるとすぐ、丈部左門は出雲国の富田城を目指して
出発した。松江に着き、そこで彼は9月9日の夜、城の土地に
在る赤穴丹治の屋敷で赤穴宗右衛門が腹切りを実行したと
聞かされた。丈部は赤穴丹治の屋敷へ行き、家族の目の前で
赤穴丹治の裏切り行為を非難して殺害し、無傷で逃走した。
そしてその話を聞いた経久候は、丈部を追ってはならんと命令を
出した。彼自身不道徳で冷酷な男ではあったが、経久候は
他人の真実の愛を尊重し、丈部左門の友情と勇気に感服
できたからである。


[1]出雲すなわち雲州《うんしゅう》の古い詩的な名前。
[2]1里はイギリスの2マイル半におよそ等しい。

88 :小林 ◆matome2rkQ:2014/12/27(土) 10:25:46.60 ID:h3tzpEyN0
A Japanese Miscellany(日本雑記)よりOf a Promise Keptでした。

上田秋成の有名な雨月物語の「菊花の約(きっかのちぎり)」を
元にした話ですね。

固有名詞の多くは雨月物語から漢字を拾いました。ただ、
Lord Enyaは雨月物語は塩谷ですが、誤記であろうと、塩冶を
あてました。

この話は「守られた約束」であって「菊花の約」ではない、という
のと、出雲市を拠点に活動していた人の名前は間違えられ
ないという理由からです。

富田城は松江じゃなくて、安来では?という疑問も有りますが
その辺は気にしないことにします。

経久とは、もちろん尼子経久です。

義兄弟の苗字は雨月物語の通りにしない方が良いのでは?という
気がしないでも有りませんが・・・

「破られた約束」と「守られた約束」は、約束をテーマにした点と
出雲地方に関係した話という点で、やはりセットにすべきですね。

89 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/12/27(土) 14:40:39.18 ID:h3tzpEyN0
>>83
「どうして、そのような」
why, as for that

と訳していましたが、

「ああ、そうだな」

の方が良いかもしれません。

90 :鳥取の布団の話1 ◆YAKUMOZcw.:2015/01/03(土) 09:40:55.81 ID:iH9pV0ck0
鳥取の布団の話

 かなり昔、鳥取の町のとても小さな宿屋が、最初の客として
行商人を受け入れた。この小さな宿屋に良い評判を立てようと
いう主《あるじ》の望みによって、普通より親切に迎えられた。
新しい宿ではあったが、主人が貧乏なため大部分の道具──
箪笥《たんす》と調度品──は古手屋《ふるてや》[1]から購入した。
ではあるが、なにもかもが清潔で快適できれいであった。お客は
思う存分食べほど良く暖められた酒を存分に飲んだ後で、柔らかい
床《ゆか》に用意された寝床に倒れこみ眠るために体を横たえた。

91 :鳥取の布団の話2 ◆YAKUMOZcw.:2015/01/03(土) 09:43:40.00 ID:iH9pV0ck0

〔ここで少しの間、日本の寝床について言及するため話を
中断しなくてはならない。病気になって療養でもしていない
限り、日中どんな日本の家屋でも、部屋のことごとくを訪ね、
隅々まで覗いたとしても、あなたは決して寝床を見ることは
ない。実際に西洋的な言葉の意味での寝床は存在しない。
日本人が寝床と呼ぶ物は、寝台が無く、バネも無く、マットレス
やシーツや覆いも無い。綿で満たしたと言うよりは詰め物を
した、布団と呼ばれる分厚いキルトだけから成る。ある枚数の
布団は畳(床敷き)の上に横たえ、そして別のある枚数は掛ける
ために使う。金持ちは布団を五六枚敷いた上で横になり、同じ
くらい多くを自分に掛けて満足できる一方、貧しい庶民は二三枚
に甘んじなくてはならない。もちろん種類は多く、西洋の炉の前の
敷物ほどの大きさもなく、さして厚くも無い使用人の木綿布団から、
8尺の長さで7尺幅の、裕福な金持ちだけが買える、厚くふくらんだ
極上の絹布団まで有る。
その上、幅の広い着物のような袖を備えて、どっしりとした布団で
作られた夜着《よぎ》まで有って、極めて寒い天気の時には、
非常に快適であるのが分かる。こういった物の全てが、日中は
壁に細工をして窪《くぼ》ませた小空間へ、きちんと畳んで
襖《ふすま》──普通は上品な模様の入った不透明な紙で
覆《おお》われた、綺麗な仕切りの引戸──を閉め、視界の外に
しまい込まれている。また、日本人の結い髪を寝ている間の乱れ
から保護するために考案された、おかしな木製の枕もしまわれて
いる。
 この枕は、間違いなく神聖視されているが、その起源と明確な
信仰の本質に関して、私は確認できていない。今これだけは
分かる、それを足で触るのは大変な間違いと考えられ、偶然で
あっても蹴ったり、そのように動かしたなら、不調法は枕を手で
額まで持ち上げて、お許しをお願いしますという意味の言葉
「ごめん」を添え、丁寧《ていねい》に元の位置へ置き直して
償わなければならない。〕

92 :鳥取の布団の話3 ◆YAKUMOZcw.:2015/01/03(土) 09:48:50.38 ID:iH9pV0ck0

 さて、夜がことのほか涼しく、寝床がとても心地良ければ、
暖かい酒をたらふく飲んだ後は、たいてい人はぐっすり眠る
ものである。しかしその客は、部屋の中から声がするせいで、
ほんの少しの間眠っただけで目を覚ました──いつまでも
同じ問い掛けでお互い訊ね合う子供の声であった。
「あにさん、寒かろう」
「おまえ、寒かろう」
 このような日本の旅館には、部屋と部屋の間を仕切る紙を
貼った引戸の他に扉が無いため、部屋の中の子供の存在は、
お客を悩ませはするが、驚かせはしない。それゆえ彼には、
闇の中を誤って子供が何人か座敷へ迷い込んだに違いない
と思われた。彼はいくらか穏やかに小言を口にした。しばらく
沈黙だけが有って、それから優しく、か細い、哀れな声が耳元で
訊ねた「あにさん、寒かろう」〔お兄さん、寒くありませんか〕そして
別の優しい声がなだめるように答えを返す「おまえ、寒かろう」
〔いや、お前の方が寒くないか〕
 彼は立ち上がり、行灯[2]の中の蝋燭に再び火を灯し、部屋を
見回した。誰も居ない。障子は全て閉まっている。戸棚を
調べると、空《から》ばかりであった。訝《いぶか》りながらも、
灯りを燃えるまま残し再び横になると、すぐに枕元から再び
ぶつぶつと話す声がした。
「あにさん、寒かろう」
「おまえ、寒かろう」
 その時初めて、夜の冷え込みではない、忍び寄る寒気を
全身で感じた。繰り返し聞こえ、その都度怖れは深まった。
声は布団の中からだと分かったのである。それは寝床の掛け
布団が、このような呼び声を出していた。
 彼は慌ただしく少ない所持品をかき集めて階段を降り、
家主を叩き起こして、何が話されたかを伝えた。すると主は
たいそう腹を立てて言い返した「大事なお客だから喜んで
貰おうと何もかもやったのに、本当は大事なお客どころか
大した大酒呑みで、悪い夢を見たんだ。」それでもお客は、
さっさと宿代を払ってどこか他所の宿を捜すと言い張った。

93 :鳥取の布団の話4 ◆YAKUMOZcw.:2015/01/03(土) 09:51:37.90 ID:iH9pV0ck0
 次の晩、ひと部屋泊まれないかと別のお客がやって来た。
夜更けになって、家主は同じ話で泊まり客に叩き起こされた。
そしてこの泊まり客は、不思議なことに全く酒を飲んで
いなかった。何かの妬みから、商売の破滅を企んでいるのかと
疑い、家主は感情的に答えた「汝を喜ばせるため、全てのことを
立派にこなしたにも関わらず、不吉で忌々しい悪態の限りを
浴びせる。この宿屋にはわしの生活が掛かっている──
それは汝にも分かりきっている。であるから、そんなことを話す
のは正しくない。」するとお客は怒りだして、もっと悪いことを大声で
言い、二人は激しい怒りの中で別れた。
 しかし、お客が去った後、家主はこういった全てがとても奇妙に
思えて、布団を調べに空の部屋へ登った。そうした内に彼は声を
聞いて、お客は本当のことしか言わなかったのだと気が付いた。
呼び掛けるのはある掛布団──たったひとつ──であった。残りは
静かである。彼は自分の部屋へ掛布団を持ち込み、夜の残りをその
下で横になった。その声は夜明けの時刻になるまで続いた。
「あにさん、寒かろう」「おまえ、寒かろう」そのため眠れなかった。
 しかし日が昇ると起き上がり、布団を買い取った古手屋の店主を
捜しに外へ出た。販売者は何も知らなかった。彼は布団を更に
小さな店から買い、その店の持ち主は遠く離れた市の郊外に
住んでいる更にもっと貧しい商人から、それを購入していた。そして
宿屋の主人は次から次へと訊ねて回る。
 それで最後に分かったのが、その布団はある貧しい家族の物で、
町の近隣に暮らしていた家族の小さな家の大家から買われた。そして
その布団の話はこうだ──

94 :鳥取の布団の話5 ◆YAKUMOZcw.:2015/01/03(土) 09:54:24.55 ID:iH9pV0ck0
 その小さな家の家賃は、月にたったの六十銭であったが、
これでも貧しい庶民が払うには大きな負担であった。父親が
稼げるのは月に二三円だけ、母親は病気で働けず、二人の
子供がいた──六歳と八歳の少年である。そして彼らは
鳥取では他所者であった。ある冬の日、父親が病気になり
7日の間苦しんだ後に死んで埋葬された。それから長く病んだ
母親も後を追い、子供達は身寄りも無く残された。彼らは助け
を求められる者を誰も知らず、売れる物が有れば生きるために
売り始めた。
 それは多くない、死んだ父母の着物、それと自分達の物の
ほとんどと何枚かの木綿の布団、僅かな貧しい家庭の調度品
──火鉢、皿やお椀に茶碗、他の些細な物。毎日何かを売って
1枚の布団の他は何も残らないまでになった。そして食べる物が
何も無く、家賃を払っていない日が来た。
 恐ろしい大寒、最も寒さの厳しい季節の到来、吹き寄せる雪が、
小さな家から遠く歩き回るには激し過ぎた。そのため、1枚の
布団の下で横になるしかできず、寒さに震え、子供らしいやり方で
お互いにいたわり合った──
「あにさん、寒かろう」
「おまえ、寒かろう」
 火は無く、火を焚ける何物も無いまま闇がやって来て、凍える風が
ヒューヒューと小さな家の中まで吹き抜けた。
 彼らは風を怖れたが、家賃の取り立てで乱暴に追い立てる家主が
もっと恐ろしかった。邪悪な顔をした厳しい男であった。何も払えないと
分かると、子供達を雪の中へ追い出し、1枚の布団を取り上げ、
家に鍵をかけた。

95 :鳥取の布団の話6 ◆YAKUMOZcw.:2015/01/03(土) 09:56:09.58 ID:iH9pV0ck0
 それぞれが薄く青い着物しか持たず、他の全ての衣類は
食べ物を買うため売ってしまい、何処にも行くあてが無かった。
遠くない所に観音の寺は在るが、たどり着くには雪が激し
過ぎた。そうして大家が去ると 、彼らはこっそり家の裏へ
戻った。そこで寒さによる眠気を感じ、お互いに温まるよう
抱き合って眠った。眠っている間に、神々が彼らへ新しい
布団を掛けた──霊的な──白くてたいそう美しい物で
あった。彼らはもはや寒さを感じなかった 。多くの日々を
そこで眠り、それから誰かが彼らを見付け、寝床を用意
されたのは千手観音の寺の墓場の中であった。
 この事を聞いた宿屋の主人は、小さな魂のために経を
読み上げて貰うため、布団を寺の坊さんに渡した。それから後、
布団は話しをやめた。


[1]古手屋、中古品──古手──の商人によって設立
された。
[2]行灯、独特の構造をした紙灯籠で夜の灯りに使う。
行灯のいくつかは実に美しい外観である。

96 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2015/01/03(土) 10:12:39.45 ID:iH9pV0ck0
Glimpses of Unfamiliar Japan(知られざる日本の面影)
日本海に沿っての章よりStory of the Futon of Tottoriでした。

出雲地方では今でも年配の人が中古品の事を古手《ふーて》と
言ったりするので、古手屋は方言なのかと思いましたが、検索
したところ、全国的な言葉と分かりました。

江戸時代の日本は小氷河期だったという説が有るくらいですから、
鳥取でも相当に寒かったでしょう。

子供を見捨てたという点で、鳥取の人にはありがたく無い話かも
知れませんが、こういう話が伝わっているという事は、身寄りの
無い子供に優しくしようという気持ちが鳥取の人に有ったのだと
思います。

97 :妖魔詩話1 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:05:37.30 ID:7WXFPAHM0
妖魔詩話

 最近一件の古本屋を散策している時に、たくさんの妖魔の絵を収録した3巻から
なる妖魔詩集を見付けた。詩集の名前は「狂歌百物語」という。百物語とは有名な
幽霊の本のことだ。話の個々の主題には、異なる時代の様々な者達の詩で構成
されている──詩の区分は狂歌と呼ばれる──そしてこれらは収集され私が幸運な
所有者となった3巻の形式に編集された。詩集は確かに工匠《たくみ》甚五郎《じんごろう》
によって「天明老人」の筆名の下(往古の天明時代)に書かれた。工匠が死んだ
のは文久元年(1861年)、八十歳の大往生であり、嘉永6年(1853年)の出版と
詩集に見える。絵は「亮斎閑人」の筆名の下に仕事をした正純と呼ばれる画家の作で
ある。
 序文の覚え書きによると、かつては人気が有り世紀のなかば以前に廃れてしまった
詩歌の種類を甦らそうと望んで、工匠甚五郎は収集品を出版し公開したのだ。狂歌
という言葉は漢字で「非常識」や「いかれた」を示し、独特で風変わりで多様なお笑い
の詩を意味する。その形式は古典的な短歌の三十一音節(五七五七七の配置)
から成る──しかし主題はいつでも古典的とは対極にあり、芸術的な効果は数多くの
先例の助け無しでは説明できない、言葉の曲芸の手法に依存する。工匠によって
出版された詩集は、西洋の読者が価値を見い出せない数多くの要素を含むが、
その最高の物が持つ明白で奇怪な特色は、恐ろしい主題で遊ぶフッドの怪奇な
技巧のひとつを思い出させる。この特色と恐ろしさに遊び心を混合させる日本独特
の手法は、様々な狂歌の原文をローマ字で模写し、翻訳と注釈を添えてのみ暗示
と説明ができる。
 私が行った選抜は、それが少ししか、あるいは全くまだ英語では書かれていない、
日本の詩歌の一種について読者へ紹介するからだけでなく、それ以上に大部分が
まだ未発見のまま残された超自然の世界を幾らか垣間見させてくれるから、
面白いと保証する。極東の迷信と民話の知識無くして、日本の小説や芝居や詩の
本当の理解は決して可能とは成らない。

98 :妖魔詩話2 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:07:20.98 ID:7WXFPAHM0

 3巻の狂歌百物語には何百もの詩が有るが、幽霊や妖魔の数は書名が示す
百には足りない。ちょうど九十五である。この妖かし全部が読者の興味を惹く
とは推測できないから、主題の7分の1未満の選抜とする。顔無し赤子、長い
舌の乙女、三つ目坊主、枕返し、千頭、提灯持ち小僧、夜泣き石、化け鷺《さぎ》、
風妖、龍灯、山姥は、印象に残らなかった。西洋人の神経には凄惨過ぎる空想
──例えば、おぶめどりのような──また、それらが単なる土地の伝統として
の扱いなら、狂歌の選択から外した。地方の民間伝承よりむしろ全国を代表
する主題を選んだ──かつて国中で広く認められ、一般的な文学にしばしば
取り上げられた古い信仰(大部分はチャイナ起源)である。

99 :妖魔詩話3 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:09:15.29 ID:7WXFPAHM0

一、狐火

 ウィル・オー・ザ・ウィスプは『狐火』と呼ばれるが、昔は妖狐がそれを生成する
と想像されたからである。古い日本の絵画でそれは、暗闇を浮遊する青白く赤い
舌のように表現され、すっと動く時に外面が発光を放たない。
 この主題で取り上げる幾つかの狂歌を理解するため、読者は狐が起こす各種の
おかしな言い伝えの妖力について、ある迷信を知っておくべきだ──他所者との
結婚に関するもののひとつである。以前のまともな一般人は、外部ではなく自身
の共同体からの結婚を期待され、この考えの中で伝統的な慣例を無視する男は、
それの集団的な憤怒をなだめるのが困難であると悟る。今日でさえ、長らく生まれ
故郷を留守にした後の村人が、見知らぬ嫁を連れて帰ると、もっともらしく意地悪
な事を言われる──このように、「分からない物を引っ張って来た……何処《どこ》
の馬の骨だ。」(「誰も知らないどんな種類の物をここまで彼は後ろに引きずる
のか、何処で拾い上げた古い馬の骨か。」)馬の骨、「古い馬の骨」の表現は、
説明を要する。
 妖狐は多くの形をとる力を持つが、男を騙す目的のため、通常は可憐な女の
姿をとる。この種の魅力的な見せ掛けを造ろうとすると、古い馬の骨か牛の骨を
拾い上げて口に咥《くわ》える。やがて骨は光り輝き、その回りに──遊女か
芸妓《げいこ》の形体で──女の姿の輪郭を形成する……そういう訳で、見知らぬ
嫁と結婚する男への疑問について「どんな古い馬の骨を拾い上げたのか」が
本当は、「どんな尻軽女が誘惑したのか」と意味している。それは更に、他所者は
特殊部落の血筋かも知れないという疑いを含んでいる 。ある種の遊び女《め》
は、古くからエタや他の下層階級の娘達の間から主に募集されてきた。

100 :妖魔詩話4 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:10:46.48 ID:7WXFPAHM0

   灯ともして
 狐の化せし、
   遊び女[1]は
 いずかの馬の
 骨にやあるらん

〔──ああ、その尻軽女は(提灯に灯を点けている)──そうして狐が変化《へんげ》
する時の、狐火を燃やす……おそらく本当は何処かしらの古い馬の骨でしか
ない……〕

   狐火の
 燃ゆるにつけて、
   わがたまの
 消ゆるようなり
 こころほそ道[2]

〔そこで狐火が燃えているから、まさに私の魂は消えていくようだ、この狭い道で
(あるいは、この気が滅入る寂しい場所で)。〕

[1]遊び女、高級娼婦、字義通りなら「遊びの女」。エタと他の下層階級が、この
女達の大きな割合を提供した。詩の意味全体は次のようになる「提灯を持った
あの若い尻軽女を見ろ。ちょっと見は可憐だ──しかし、そういうのは畜生の
鬼火を燃やしている狐のちょっと見で、作り物の娘と思われる。ちょうどお前の
女狐のように、古い馬の骨に過ぎないと証明されて、そうしてあの若い娼婦も、
その美貌で男を愚行へと惑わす、エタよりマシな者では無かろう。」

[2]遅くなった旅人が、鬼火を怖れて語ったと想像される。最後の行は2つの読み
を可能とする。『こころほそい』は「気後れ」を意味し、『細い道(ほそみち)』の意味
は「狭い道」で、具体的には「淋しい道」である。

101 :妖魔詩話5 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:13:22.07 ID:7WXFPAHM0

二、離魂病《りこんびょう》


 『離魂病』という用語は、「影」「念」「化生」を示す「離魂」の言葉と、「病気」や
「疾患」を示す「病」の言葉で構成される。文字通りの表現で「念の病気」と言っ
ても良いだろう。和英辞典であなたには「離魂病」の意味が「心気症《ヒポコン
デリー》」の定義で見付かるであろうし、医者達は実際この近代的な感覚で
専門用語を使う。しかし、古くからの意味は、分身を造り出す心の疾患であり、
1冊全体がこの異様な病にまつわる不思議な文献が存在する。それは恋愛を
原因とする激しい恋慕の嘆きの影響下で、苦しむ者の精神が分身を造り出す
のだろうと、以前はチャイナと日本の双方で信じられていた。このような離魂病
の被害者は、ふたつの体を持って現れ、寸分違わぬこの体のひとつは、もう
一方が家に残ったままで、そこには居ない愛する者の元へ出掛けて行く。(私の
「異国情趣と回顧」の「禅書の一問」の章から読者はこの主題の典型的なチャイナ
の話を見付けるだろう──娘《むすめ》倩《しん》の話)分身と生き霊の幾つか
の素朴な信仰形態は、おそらく世界のどの地域にも存在するが、この極東の
多彩さは、恋愛が分身の原因になると信じられていたから特別興味深く、女性
に有りがちな苦悩が対象である……離魂病という用語は、精神の乱れが化生を
造り出す想定と同様、その化生達にも適用されて見える。それは「念の疾患」
と同様に「霊的分身《ドッペルゲンガー》」をも意味する。

 ──この必要な説明と共に、次の狂歌の質が理解できるようになる。狂歌
百物語に出てくる1枚の絵は、1杯のお茶を女主人へ差し出すのを不安がる
侍女が見える──「念の病気」の被害者である。侍女は目の前の本物と化生
の姿の間で見分けができず、その状況の難しさは、翻訳した最初の狂歌に
示されている──

102 :妖魔詩話6 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:14:58.75 ID:7WXFPAHM0

   こやそれと
 あやめもわかぬ
   離魂病、
 いずれを妻と
 引くぞわずらう

〔こちらなのか──あちらなのか、離魂病のふたつの姿、それは見分けが付け
られない 。どちらが本当の妻か見付け出すのは──精神の苦悩であろう全く。

   ふたつ無き
 いのちながらも
   かけがえの
 からだの見ゆる──
 影のわずらい

〔命がふたつ無いのは確実だ──にも関わらず、影の病のせいで、余計な体
が見える。〕

   長旅の
 夫《おと》をしたいて
   身ふたつに
 なるを女の
 さる離魂病

〔離れた旅に在る夫のあとを慕う女は、霊的な病気のため、こんなふたつの
体になる。〕

   見るかげも
 無きわずらいの
   離魂病──
 おもいの他に
 ふたつ見る影

〔霊的な病気であるから、(そう言う)とはいえ、彼女の影が残っては見えない
──その上期待に反した 、ふたつの影が見える。[3]〕

   離魂病
 人に隠して
   奥座敷、
 おもてへ出さぬ
 影のわずらい

 離魂病の苦悩、彼女は奥の部屋へ人々から隠れ去り、家の前へ出よう
とはしない──病の影のせい。[4]〕

   身はここに
 魂《たま》は男に
   そい寝する──
 こころもしらが
 母がかいほう

〔体はここに横たわるが、魂は遠く行って男の腕に眠る──そして白髪の
母は、娘の心をよく知らず(体だけ)看病している。[5]〕

   たまくしげ
 ふたつの姿
   見せぬるは、
 あわせ鏡の
 影のわずらい

 もし、化粧台に座っている時なら、鏡に映った彼女の顔をふたつ見る──
影の病の影響下での合わせ鏡になったからであろう。[6]〕

103 :妖魔詩話7 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:17:11.73 ID:7WXFPAHM0

[3]日本人は病気でひどく痩せ衰えた者を「見る影も無い」と言う──「見るに
耐えない」感覚と同じ言い回しで使う事実から、別の表現をすることも可能
である──「この霊的病気の苦悩する者の顔は見るに耐えないけれども、
その上〔他所の男への〕秘めた想いから、今は彼女の顔がふたつ見える。」
4行目の『おもいの他』という表現は「期待に反して」を意味するが、秘められた
想いへの想像をも暗示するよう巧妙に作られている。

[4]4行目は珍しい言葉の遊びになっている。『おもて』の言葉は「前」を意味
するが、『おもって』という「考え」を意味する発音でも読める。したがってその
詩はこのようにも翻訳できる──「彼女は本心を家の奥側に隠して、決して表
の側で人から見えるようにしない──〔恋の〕影の病に苦しんでいるからである。

[5]4行目は二重の意味を表現しているというよりは、むしろ暗示している。
『しらが』「白髪」という言葉は、『しらず』「知らない」を暗示する。

[6]この詩には多様な暗示が有り、翻訳して伝えるのは不可能である。日本の
女性は化粧をする間ふたつの鏡(合わせ鏡)を使う──その内のひとつは
手鏡で、髪型の後ろの部分の見掛けを整えるため、それを大きな固定の鏡の
中に反射させて見る役に立たせる。しかし、この離魂病の場合、その女性は
大きな鏡の中に見るのは顔と頭の後ろだけではなく、自分の分身が見える。
この詩では、鏡のひとつが影の病を受けたため、それ自体二枚になったと述
べている。更に鏡とその持ち主の魂の間に存在すると言われる、霊的共感を
暗示している。

104 :妖魔詩話8 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:20:05.74 ID:7WXFPAHM0

三、大蝦蟇《おおがま》

 古いチャイナと日本の文献で蝦蟇は、超自然的能力を持つと信じ
られた──雲を呼び寄せる力、雨を降らす力、口から魔力の有る霧
を吐き出して極めて美しい幻影を造る力等である。善良な精神で、
聖者の友人の蝦蟇も幾らか存在する──日本の芸術で有名な
「蝦蟇仙人」と呼ばれた聖者は、通常彼の肩の上に止まるか、側《そば》に
しゃがむ白い蝦蟇と共に描写された。幾つかの蝦蟇は邪悪な妖かし
であり、人を破滅へ誘い込む目的で幻像を造り出す。この種の生物に
ついての代表的な話は、拙著「骨董」の中に「忠五郎の話」と付けた
題名で見付かるだろう。

   目は鏡、
 口は盥《たらい》の
   ほどに開《あ》く
 蝦蟇もけしょうの
 ものとこそ知れ

〔その目は大きく開かれ(丸い)鏡のようであり、口は洗い桶《おけ》の
それのように開いている──この事から、蝦蟇は魔性の物(あるいは、
蝦蟇は化粧の品)と知りなさい。[7]〕

[7]仮名で書くと同じで、発音も同様ではあるが、漢字で表現すると全く
異なる『けしょう』という2つの日本の言葉が有る。仮名で書けば、『けしょうの
もの』という表現で「化粧の品」や「怪物的存在」「妖魔」共に示すことができる。

105 :妖魔詩話9 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:21:35.57 ID:7WXFPAHM0

四、蜃気楼

 『蜃気楼』という呼称は、「ミラージュ」の意味として、また極東の寓話の
仙境、蓬来の別名としても使われる。日本の神話の様々な存在が、蓬来の
蜃気楼を造り出す死にいたる欺きの力を持つと信じられた。古い絵の
ひとつに、蝦蟇が口から蓬来の形をした幻影の靄《もや》を吐き出す行為を
する表現を見ることができる。しかし、とりわけこの幻影を生じさせる習慣の
ある生き物は、蛤《はまぐり》である──二枚貝によく似た日本の軟体動物
のひとつ。その殻を開け、紫がかった霧の息を空気中に送ると、その霧は
真珠層の色彩の中に、蓬来と龍王の宮殿の輝く映像の形を明確にとる。

   はまぐりの
 口あく時や、
   蜃気楼
 世に知られけん
 龍《たつ》の宮姫《みやひめ》

〔蛤が口を開く時──見よ!蜃気楼が出現する……その時は皆が龍宮の
乙姫を明瞭に見られる。〕

   蜃気楼──
 龍の都の
   雛型[8] を
 潮干の沖に
 見するはまぐり

〔見よ!引き潮の沖を、はまぐりが蜃気楼で小規模な幻の映像を作って
いる──それは龍の首都!〕

[8]『雛型』は特種な「模型」「縮小した複製」「平面描写図」他を意味する。

106 :妖魔詩話10 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:23:31.79 ID:7WXFPAHM0

五、ろくろ首

 『ろくろ首』の語源の意味を、どんな英語の表現でも簡潔に示すことは
できない。『ろくろ』という用語は、回転する物体の多くを無頓着に明示する
のに使われる──物体は、滑車、巻き取り車、錨《いかり》の巻き上げ機、
回転旋盤、陶芸の轆轤《ろくろ》といったように似ていない。ろくろ首の表現を、
このような『旋回首』や『回転首』にするのは思わしくない──この用語が
示す日本人の思い付きは、旋回する首がその回転の方向に合わせて伸び
たり縮んだりするからである……妖かしとしての表現が意味するろくろ首は
と言えば、(1)寝ている間に首が驚くほど延びる者で、そうして頭はむさぼり
食える物を捜しに、およそどの方向へも彷徨《うろつ》くことができるか、
(2)体から頭を完璧に取り外して、後で首へ再結合できる男か女の人である。
(この最後に言及したろくろ首の一種については、拙著「怪談」に日本語から
翻訳した珍しい話が有る。)頭の完全な分離を可能とするような、首が
そうした構成のチャイナの神話的存在は特種な階級に属するが、日本の
民話にこの特徴が、いつでも維持されている訳ではない。ろくろ首の特徴に、
夜の灯火の油を飲む悪い癖がある。日本に於ける絵画のろくろ首は通常
女として描かれ、古い本が言うには女がそれと知らないままろくろ首になる
のであろう──夢遊病者が眠っている間に歩き回るのと同様、事実の
存在に気付いていない……次のろくろ首にまつわる詩は、狂歌百物語の
中の二十首から選んだ──

107 :妖魔詩話11 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:24:35.18 ID:7WXFPAHM0

   寝乱れの
 ながき髪をば
   ふりかけて
 ちひろに延ばす
 ろくろ首かな

〔おお!……眠りで乱れた結わない長い髪をゆらして、ろくろ首は
千尋(訳注:約千八百メートル)の長さへ首を伸ばす。〕

   「頭なき
 化けものなり」─と
   ろくろ首、
 見ておどろかん
 おのが体を

〔ろくろ首じゃない、(背後に残された)彼女自身の体を驚き眺めて
叫び出す「ああ、なんて事、あなた頭の無い妖怪になったのね」〕

   つかの間に
 梁《はり》をつたわる、
   ろくろ首
 けたけた笑う──
 顔のこわさよ

〔すたすたと、天井の梁(天井の支柱)に沿って滑空する、ろくろ首が
「けたけた」と声を出して笑う──おお、恐るべきは彼女の顔。〕

   六尺の
 屏風《びょうぶ》にのびる
   ろくろ首
 見ては五尺の
 身をちじみけり

〔六尺の屏風の上へ浮上するろくろ首を拝すると、五尺程度の者は、
恐怖で縮むだろう(あるいは、幾らかの者の身長は、五尺の高さから
減少するだろう。)[10]〕

108 :妖魔詩話12 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:25:39.57 ID:7WXFPAHM0

[9]この文章中の二重の意味を全て描写するのは、できる事ではない。
『つかの間』は「少しの間」や「す早く」を示すが、それは「天井の支柱〔束《つか》〕
の間の空間〔間《ま》〕」をも意味できる。「桁《けた》」は横梁を意味するが、
『けたけた笑う』は嘲《あざけ》るやり方の笑いや含み笑いを意味する。化生は
けたけたの響きで笑い声を立てる。

[10]本間《ほんけん》屏風は、通常6日本フィート。

109 :妖魔詩話13 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:27:40.10 ID:7WXFPAHM0

六、雪おんな

 雪の女性、あるいは雪の残像、様々な形態を想定されているが、古い
民話のほとんどに美しい見掛けで現れ、その抱擁は死である。(彼女に
ついての非常に珍しい話が拙著「怪談」で見付けられる。)

   雪おんな──
 よそおう櫛も
   厚氷《あつこおり》
 さす笄《こうがい》や
 氷なるらん

〔雪おんなであるなら──最高の櫛でさえ、間違っていなければ、厚い
氷で作られる、そして髪留め[11]も、おそらく氷で作られている。〕

   本来は
 くうなるものか、
   雪おんな
 よくよく見れば
いち物《ぶつ》もなし

〔全く初めの時から錯覚だったのか、あの雪おんなは──虚空へ
消えていく物なのか?注意深く辺りの全てを見たが、痕跡はひとつ
として見当たらなかった。〕

   夜明ければ
 消えてゆくえは
   しらゆき[12]の
 おんなと見しも
 柳なりけり

〔日の出に消えて行った(雪おんな)、何処へ行ったかは何も言えない。
しかし実際は一本の柳の木が、白い雪の女になったように見える。〕

   雪おんな
 見てはやさしく
   松を折り
 生竹ひしぐ
 力ありけり

〔見掛けは細身で優しい雪おんなが現れたとはいえ、それでも、ポキッと
松の木を真っぷたつにし、生きた竹を押しつぶす力を持っているはずだ。〕

   寒けさに
 ぞっと[13]はすれど
   雪おんな──
 雪折れの無き
 柳腰かも

〔雪おんなが冷気で震えのひとつを作り出したとしても、すらっとした優雅さ
は、雪にも崩されない(換言すれば、寒さにも関わらず我々を魅了する)。

110 :妖魔詩話14 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:29:48.47 ID:7WXFPAHM0

[11]笄は、現在では結い髪の下へ通すべっ甲の四角い棒に与え
られた名前で、棒の端だけを露出するままにしておく。本来の髪留めは
簪《かんざし》と呼ぶ。

[12]『しらゆき』の表現は、ここで使われるように、日本の詩歌の『兼用言
《けんようげん》』つまり「二重の意図を持つ言葉」の実例として挙げられる。
すぐ次の言葉と連結して、「白い雪の女」(白雪の女)という言い回しを作る
──すぐ前の言葉と結合すると「何処へ行ったか知らない」(行方は知ら〔ず〕)
という読みを示す。

[13]『ぞっと』は、そのまま表現するのが困難な言葉で、おそらく最も近い
英語の相当する語句は「スリリング」である。『ぞっとする』は「スリルを引き
寄せる」や「ショックを与える」や「震えを作り出す」を示し、非常に美しい者を
こう言う「ぞっとするほどの美人」──意味は「非常に可憐なので、見るだけで
人に衝撃を与える女。」最後の行の『柳腰』の表現は、細身と優雅な姿に付け
られた共通する言い回しであり、ここで読者は表現の前半が、二重の役割を
果たすよう巧妙に作られているのに気が付くだろう──柳の枝が雪の重みで
下がる優雅さだけでなく、寒さにも関わらず必ず人が立ち止まり賞賛する
人間らしい姿の優雅さをも、その文脈は暗示している。

111 :妖魔詩話15 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:31:22.58 ID:7WXFPAHM0

七、舟幽霊《ふなゆうれい》

 溺死した霊は、手桶か柄杓《ひしゃく》(水をすくう物)と叫んで舟の後を
追うと言われる。手桶や柄杓の拒否は危険であるが、前もって用具の底を
叩いて外し、この行動を化生達が見ることを許さず実行して、要求に応じ
なくてはならない。もし無傷の手桶や柄杓を幽霊へ投げれば、舟を満たんに
して沈める為にそれを使うだろう 。この形状の者達を俗に「舟幽霊」と呼ぶ。
 1185年に壇之浦の大海戦で滅んだ平家一門、この戦士達の霊は舟幽霊
の間でも有名である。一門の武将のひとり平知盛《たいらのとももり》は、
この異様な役割で名高く、部下の戦士の幽霊達を従え波の上を走り、舟達を
追い越して襲う古い絵に代表される。かつて義経の家臣で名高い弁慶の
航海する船舶を威嚇したが、弁慶は仏教徒の数珠による手段だけで舟を救う
ことができ、化生達は怯えて逃げた……
 知盛は、しばしば背中に舟の錨《いかり》を背負って海の上を歩いて運ぶ
ように描写された。彼と部下の幽霊達は、船舶の錨を引き抜いて持ち去る
癖が有ると言われ、無分別に根城──下関の周辺──に繋いでいた。

112 :妖魔詩話16 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:33:27.18 ID:7WXFPAHM0

   えりもとへ
 水かけらるる
   ここちせり、
 「柄杓かせ」ちょう
 舟のこわねに。

〔もし首のうなじに冷たい水を振り掛けられたようなら──そう感じて
いる間、舟幽霊の声が聞こえる──「柄杓貸せ」と言う。[14]〕

   幽霊に
 貸す柄杓より
   いち早く
 おのれが腰も
 抜ける船長 。

〔船長自身の腰は、幽霊へ渡す柄杓の底よりも、物凄く早く抜ける。[15]〕

   弁慶の
 数珠のくりきに
   知盛の
 姿もうかむ──
 舟の幽霊

〔弁慶の数珠の功徳は、舟を追う幽霊さえも──知盛の化生でさえも
──救った。〕

   幽霊は
 黄なる泉の
   人ながら、
 青うなばらに
 などて出つらん

〔どんな幽霊でも黄泉《よみ》の住民にるはずなのに、どうやって青い
海原に現れたのだろう。[16]〕

   その姿、
 いかりをおうて、
   つきまとう
 舟のへさきや
 とももりの霊

〔その姿は、錨を背負って舟の後を追う──今は船首に、そして船尾
へ──ああ、知盛の幽霊だ。[17]〕

   つみふかき
 海に沈みし、
   幽霊の
 「浮かまん」とてや
 舟にすがれる。

〔「今、偶然に助かるかも」叫ぶ幽霊は、罪業の深い海に沈んで
通る舟へすがりつく。[18]〕

   浮かまんと
 舟をしたえる
   幽霊は、
 沈みし人の
 おもいなるかな

〔再び浮かぼうと(つまり「救われようと」)して、我々の舟の後を追う
幽霊達の苦労は、溺死した人達の思い(最後の執念)なのかも知れない。[19]〕

   うらめしき
 姿はすごき
   幽霊の
 かじをじゃまする
 舟のとももり

〔執念深い形相で、船尾に(出る)恐ろしい知盛の幽霊が、梶の操作の
邪魔をする。[20]〕

113 :妖魔詩話17 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:34:12.13 ID:7WXFPAHM0

   落ち入れて
 魚《うを》の餌食と
   なりにけん──
 舟幽霊も
なまくさき風。

〔海で滅んだから、(この平家達は)魚の餌になっているのだろう。
(いずれにせよ、いつでも)舟を追う幽霊達(の出現)の風は、生の
魚の臭いがする。[21]〕

114 :妖魔詩話18 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:37:00.96 ID:7WXFPAHM0

[14]『柄杓』は長い取っ手の付いた木製の杓子《しゃくし》、水を手桶から
小さな容器へ移すために使われた。

[15]一般的に『腰が抜ける』の表現は、恐ろしくて立ち上がれない意味で
ある。船長は柄杓の底を叩いて外そうとする間、幽霊へ渡す前に恐怖から
人事不省に陥った。

[16]死者の住む冥府は、その名前をふたつの漢字でそれぞれ「黄」と「泉」
と書き、黄泉──『よみ』あるいは『こうせん』──と呼ばれる。大洋の非常に
古くからの表現で、昔の神道の儀式によく使われたのが「青海原」である。

[17]終わりの2行には、翻訳不能な言葉の上での遊びが有る。表現上、
ふた通りの読みが可能である。

[18]この詩には表現上の示唆よりも、不気味さが存在する。4行目の『浮かまん』
の言葉は、「たぶん浮かぶだろう」や「たぶん救われるだろう」(仏教徒に於ける
魂の救済)のように表現できる──『浮かみ』にはふたつの動詞が存在する。
古い迷信によれば、このように溺死した霊は、生者を破滅へと誘い込める時
まで、水の中に住み続けなくてはならない。どんな溺死した者の幽霊でも
誰かの溺死に成功すれば、転生を得て永久に海から去れるだろう。この詩
の幽霊の歓喜の叫びの本当の意味は、「今から誰かを溺死させられるかも
知れない。」(非常によく似た迷信は、ブルターニュ沿岸に存在すると言われ
ている。)人の後をぴったり追うしつこい子供や誰かのことを一般の日本人は
こう言う「川で死んだ幽霊のような連れ欲しがる。」──「どこにでも着いて
来たがるあなたは、溺死者の幽霊みたいだ。」

115 :妖魔詩話19 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:37:22.20 ID:7WXFPAHM0

[19]ここでの様々な言葉の遊びを表現する試みはできないが、『おもい』の
言い回しには説明が必要だ。それは「思う」や「考える」を意味するが、日常
会話の言葉遣いでは、しばしば死にゆく者の復讐への最後の望みを、遠回し
に表現する際に使われた。様々な芝居で「幽霊の復讐」を意図して使われた。
「『思い』が帰って来た」このような──死者に言及した──叫びの本当の
意味は、「怒れる幽霊が現れた。」である。

[20]最後の行の『とももり』の名前の使用は、二重の意味が与えられている。
『とも』の意味は「船尾(艫《とも》)」、『もり』の意味は「漏れる」となる。そうすると
この詩は、知盛の幽霊が舟の梶の邪魔をするだけではなく、漏れの原因になる
と暗示する。

[21]『なまくさき風』の本来の意味は、「生物《なまもの》の悪臭」を含んだ風
だが、詩の2行目で餌の臭いを暗示している。この場合、文字通りの解釈は
できない、全体の構図が暗示だからである。

116 :妖魔詩話20 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:39:47.25 ID:7WXFPAHM0

八、平家蟹《へいけがに》

 読者は拙著「骨董」の中に、背中の甲羅の様々な皺《しわ》が怒れる
顔の輪郭に似た、平家蟹の記述を見付けることができる。下関では、
この珍しい生き物の乾燥した標本を販売している……平家蟹は壇之浦
で滅んだ平家の戦士の怒れる霊魂が形を変えたものだと言われている。

   しおひには
 勢揃えして、
   平家蟹
 浮き世のさまを
 横に睨みつ。

〔潮が引いて(浜辺の上に)整列した平家蟹は、この哀れな世界の見せ掛け
を斜めに睨む。[22]〕

   西海に
 沈みぬれども、
   平家蟹
 甲羅の色も
 やはり赤旗。

〔長らく前に(平家は)西の海へ沈んで滅びたけれど、平家蟹は上の甲羅に
まだ赤い色の旗を誇示する。[23]〕

   負け戰《いくさ》
 無念と胸に
   はさみけん──
 顔もまっかに
 なる平家蟹。

〔敗北の痛みからハサミは胸で伸びたのだと思う──平家蟹の顔でさえ
(怒りと恥で)真紅になる。

   味方みな
 押しつぶされし
   平家蟹
 遺恨を胸に
 はさみ持ちけり。

〔全ての(平家の)関係者は、すっかり潰され、心の中の遺恨から、ハサミは
平家蟹の胸の上で成長する。

117 :妖魔詩話21 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:40:16.52 ID:7WXFPAHM0

[22]詩の1行目の3番目の音節『ひ』は、「引き潮」と「乾いた浜辺」の『干潟
《ひかた》』の「ひ」を示す役割を持っている。『勢揃え』は、ローマの専門用語
「アキエス」の感覚で「布陣」を示す名詞である──そして『勢揃えして』の意味
は「全隊整列」である。

[23]平家つまり平《たいら》氏の旗印は赤、一方その仇敵である源氏つまり
源《みなもと》は白であった。

[24]5行目の『はさみ』の言葉の使われ方は、とても良い兼用言の実例である。
蟹や刃物のハサミを意味する『はさみ』という名詞が有って、『はさみ』という心に
抱くや、大事にする、慰めるを意味する動詞も存在する。(『遺恨をはさむ』は、
「敵への恨みを心に抱く」を意味する。)次とのつながりだけで言葉を読むと
『はさみ持ちけり』の表現は 「ハサミを持つ」であるが、先行する言葉と共に
『遺恨を胸にはさみ』の言い回しだと「恨みを彼らの胸で養う」となる。

118 :妖魔詩話22 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:41:35.54 ID:7WXFPAHM0

九、家鳴《やな》り

 最近の辞書は『家鳴り』の言葉の妖しい意味を無視する──地震の間
に家が揺れて出る音と伝えるのみである。しかし、この言葉は、かつて
妖魔が家を動かして揺れる物音を意味し 、目に見えない揺らす存在も
『家鳴り』と呼んだ。明白な原因が無く、夜中にいくらか家が震えて、
きしみ、音を立てると、かつて庶民は超自然的な悪意によって、外から
揺らす存在を想定した。

   床の間に
 生けし立ち木も
   たおれけり、
 家鳴りに山の
 動く掛け物。

〔床の間に置いた生きた木でさえ倒れ伏し、吊られた絵の山々は家鳴りの
作る振動で震える。[25]〕

[25]日本の部屋の『床の間』は、常に絵を吊り、花を入れた花瓶か小さくした
木が置かれた、装飾目的の窪みや小部屋の一種。

119 :妖魔詩話23 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:43:15.02 ID:7WXFPAHM0

十、逆さ柱《ばしら》

 『逆さ柱』(この狂歌では、しばしば『逆柱《さかばしら》』と短縮される)
の用語の文字通りの意味は、「上側が下になった柱」。木の柱は、特に
家の柱は、切り倒された木の本来の姿勢と一致して据え付けなくては
ならない──つまり、最も根に近い部分を下へ向ける。家の柱を反対の
やり方で立てると、不運を招くと考えられた──以前はこのような失敗は、
「逆さま」の柱が悪質な事をしようとするから、一種の霊的に不愉快な
事象に巻き込まれると信じられた。夜中に嘆きや呻きをあげ、割れ目の
全てを口のように動かしたり、全ての節《ふし》を目のように開いたりする。
更に、その霊魂は(家の柱の全ては霊魂を持つため)材木から長い体を
取り外し、部屋から部屋を回ってぶらつき、逆さまの頭で、人々へしかめっ面
をする。これで全てという物でも無かった。『逆さ柱』のひとつは、どうやって
一家の全ての事態に狂いを作り出すかを知っていた──どうやって
家庭内のいざこざを煽動するか──どうやって家族と使用人のそれぞれに、
不運を招き寄せるか──どうやって生きていくのが耐えられなくなる
寸前へ、大工のへまを見つけ出して、矯正するしかなくなるまで追い込む
のかである。

120 :妖魔詩話24 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:44:43.36 ID:7WXFPAHM0

   逆柱
 たてしは誰《た》ぞや
   心にも
 ふしある人の
 仕業なるらん

〔誰が逆さに家の柱を設置したのか。きっと心に節を持つ人の仕事に違いない。〕

   飛騨山を
 伐《き》りきてたてし
   逆柱──
 なんのたくみ[26]の
 仕業なるらん

〔あの家の柱を、飛騨の山から切り倒して、それからここへ持ち込んで、
逆さまび立てるとは──大工仕事の何ができるというのか。(あるいは、
「何の悪だくみが、この行為を実行することで、できるのか。)〕

   うえしたを
 違えて立てし
   柱には
 逆さまごとの
 うれいあらなん。

〔上下を間違えて立てた家柱に関しては、必ず災難と悲しみの原因に
なるだろう。[27]〕

   壁に耳
 ありて、聞けとか
   逆しまに
 立てし柱に
 家鳴りする音

〔おや、壁に有る耳よ[28]、汝は聞こえるか、逆さまに立てられた家柱の
呻《うめ》きと軋《きし》みが。〕

   売り家の
 あるじを問えば
   音ありて、
 われ目が口を
 あく逆柱。

〔売り家の主人に問いかけた時、応答に奇妙な音だけがあった──逆さ柱
が目と口(言い換えれば、それらの亀裂)を開ける音だ。[29]〕

   おもいきや
 逆さ柱の
   はしら掛け
 書きにし歌も
 やまいありとは

〔誰が思えるのか──逆さまに立てられた柱に掛かる、額に書かれた
詩でさえ、同じ(霊的)病気を持つとは。[30]〕

121 :妖魔詩話25 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:46:35.90 ID:7WXFPAHM0

[26]『たくみ』の言葉は仮名で書かれているから、「大工」や「陰謀」
「悪だくみ」「邪悪なからくり」のどれでも表現できる。このようなふたつの
読み方が可能である。ある読み方によれば、柱は不注意から逆さまに
据え付けられた、もう一方によると、それは悪意から故意にそうして
据え付けられた。

[27]字義通りなら「逆さまの事態の悲しみ」。『逆さまごと』「逆さまな
事件」は、災難、反対、逆境、無念の庶民的な表現。

[28]諺を暗示する『壁に耳あり』であるが、意味は「私的であっても、他人に
ついての話し方には気をつけろ。」

[29]4行目に、意訳できる表現よりも更に多くを暗示する語呂合わせが
存在する。『われ』の意味は状況によって「私」「私の物」「自前の」等々、
『われ目』(一語)では、ひび割れ、裂け目、分離、亀裂を意味する。読者は
『逆柱』の用語が「逆さまの柱」だけではなく、逆さまの柱の妖魔や化生を
意味すると覚えているだろう。

[30]言い換えれば「額の詩さえも逆さま」──全く正しくない。『はしら掛け』
(「柱に吊るされる物」)は、銘木の薄い板を指定し、彫ったり描いたりして、
装飾として柱へ吊るす。

122 :妖魔詩話26 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:48:28.84 ID:7WXFPAHM0

十一、化け地蔵

 子供達の幽霊の救済者、地蔵菩薩の姿は、日本の仏教で最も美しく慈悲深い
もののひとつである。この仏像は、およそ全ての村と全ての道端で見られる
だろう。しかし幾つかの地蔵の像は、魔物の仕業だと言われている──様々な
偽装をして夜中に歩き回るようなのがこれである。この種の彫像を「化け地蔵」
[31]と呼ぶ──変化《へんげ》を経た地蔵を意味する。昔ながらの1枚の絵は、
小さな少年が、いつものお供えの餅を地蔵の石像の前へ置く様子を表現する
──動く彫像がゆっくり彼に向かってかがんでいるとは、疑いもしない。

   なにげなき
 石の地蔵の
   姿さえ、
 夜《よ》は恐ろしき
 御影《みかげ》とぞなき。

〔まるで何の問題も無いように見える石地蔵であっても、夜には恐ろしい外見が
推測されると言う。(あるいは、「この像が、ありふれた石地蔵になって現れたと
しても、夜には恐ろしい花崗岩《かこうがん》の地蔵になると言う。」)[32]〕

[31]おそらくこの用語は「形状が変化する地蔵」に与えられたのだろう。動詞の
『化ける』が意味するのは、姿を変える、変身を経験する、怪異を起こす、その他
諸々の超自然的事象である。

[32]花崗岩の日本語は『御影』、神徳や天皇に関して用いる敬語の『御影』もまた
存在し、それが示すのは「尊い容姿」「神聖な霊気」等々……文字通りの解釈
では、後半の読みの5行目の効果を暗示できない。『影』が示すのは「陰」「姿」「力」
──特に見えない力 、前に付く敬称の『御』は、神々しい名称や特質に添える
「高貴な」と解釈できるだろう。

123 :妖魔詩話27 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:50:02.41 ID:7WXFPAHM0

十二、海坊主

 銘板の上に大きなイカを、体を上向きに、触手を下向きに置きなさい
──『海坊主』つまり海の僧侶を想像する最初の暗示、奇怪な現実を
前にするだろう。この配置で下の方にぎょろ目の付いた大きなつるつるの
体に、僧侶の剃った頭との歪められた類似が有り、底を這う触手の
(黒ずんだ膜で繋がった種もある)様子は、僧侶の上着の衣が揺れる動きを
暗示するからである……日本の妖しい文学と古風な絵本は、海坊主の姿を
よく扱う。悪天候の大海から、獲物を捕まえに浮上する。

   板ひとえ
 下は地獄に、
   すみぞめの
 坊主の海に
 出るもあやしな。

〔たった1枚の(船乗りと海を隔てる)板を除けば、そこから下は地獄、実に
妖しい事に、黒で装う僧侶が浮上するだろう。(あるいは「誠に不思議な
出来事は」等々。[33])〕

[33]洒落が手に負えない……『あやしい』の意味は「怪しい」「不思議な」
「超自然的な」「妖しい」「疑わしい」──始めの2行は仏教徒の諺を典拠と
している『船板1枚下は地獄』(拙著『仏陀の畠の落穂』206ページに、この
格言への参照がもうひとつ有るので見られたし 。)

124 :妖魔詩話28 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:51:45.07 ID:7WXFPAHM0

十三、札剥《ふだへ》がし[34]

 家は神聖な文字と護符によって悪霊から守られる。どんな村やどんな都市
でも、夜に雨戸が閉じられた通りではこの文字が見られ、雨戸が戸袋の中に
押し戻された日中は見えなくなっている。このような文字は『お札《ふだ》』(尊い
手書き文字)と呼ばれ、白く細長い紙の上に漢字で書かれ米の糊《のり》で戸
に貼り付けられ、種類も豊富である。幾つかの文字はお経から選ばれる──
般若心経や妙法蓮華経などである。陀羅尼からの聖句もある──それは魔力
を持つ。世帯の仏教の宗派を示す祈りだけのもある……他にも窓の上や脇、
隙間に貼られた中小様々なこの文字や小さな版画を見ることができる──ある
物は神道の神々の名前であり、別の物は象徴的な絵のみや、仏陀と菩薩の絵
とかになる。全ては神聖な護符である──この『お札』は家々を守り、妖魔や
幽霊は夜の間こうして護られた住居には、お札を外さなければ入れない。
 怨霊は脅迫か約束や買収の努力をして、誰かに外してもらわなくては、自身で
お札を外せない。お札を戸から剥がしてもらいたがる幽霊を札剥がしと呼ぶ。

   剥がさんと
 六字の札を、
   幽霊も
 なんまいだと
 数えてぞみる

〔幽霊でさえ、六つの文字が書かれた護符を剥がそうとして、「何枚だ」と
現物を数える試みを繰り返す(あるいは、「南無阿弥陀」と繰り返す)。[35]〕

   ただ1の
 かみのお札は
   さすがにも
 のりけ無くとも
 剥がしかねけり

〔(家の壁に貼られた)神の尊いお札は、固定する糊が全く効かなくなっても、
どんなに努力しようと1枚も剥がせない。〕

125 :妖魔詩話29 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:53:44.72 ID:7WXFPAHM0

十四、古椿《ふるつばき》

 昔の日本人には、昔のギリシャ人のように花の精と木の精霊の概念が
有り、幾つかの可愛らしい話が語り継がれている。また木には悪意の有る
存在も住むと信じられた──妖木。別の妖しい木の中で、美しい椿(キャメル
ジャポニカ)は不吉な木と言われている──少なくとも赤い花が咲く品種は
こう言われ、白い花を咲かせる種はもっと評判が良く、珍品として大事にされる。
大きくぼってりした深紅の花は、しぼみ始めると茎より自ら身を切り離し、ドサッ
と音を立てて落ちる珍しい習性が有る。昔の日本人にはこの重くて赤い花の
落下が、刀で切り落とされる人の頭のように想像され、その鈍い落下音は
切断された頭がドタッと地を打つようだと言われている。それでも日本の庭で
気に入られて見えるのは、つやつやした葉振りの美しさが適しているからで、
その花は床の間の飾りに使われる。しかし侍の家庭では、戦時の間は椿の花
を決して床の間へ置かないしきたりが有った。
 読者は次の──収集品の中で最も気味悪く見える──狂歌で、椿の妖かし
が「古椿」と呼ばれているのに気が付くだろう。若い木は妖かしの傾向は想定
されていない──長い年を経た後の存在だけが発現させる。別の奇怪な木
──例えば柳や榎《えのき》──も、同様に古くなった物だけが危険になると
言われ、類似した信仰は──子猫の状態では無邪気だが、老年に魔性を
帯びる──猫に見られるように、神秘的な動物を対象に普及している。

   夜嵐に
 血潮いただく
   ふるつばき
 ほたほた落ちる
 花の生首

〔夜の嵐によって振られた、血の冠と古椿、ほたほた(の音と共に)血みどろ
の花の頭が次から次へと落ちる。[36]〕

   草も木も
 眠れる頃の
   小夜風に
 めはなの動く
 古椿かな

〔草も木でさえ眠る頃の夜のそよ風の下──古椿が目と鼻を(あるいは、
古椿が芽と花を)動かす。[37]〕

   灯火《ともしび》の
 影あやしげに
   見えぬるは
 油しぼりし
 古椿かも

〔灯火の光が不気味[38]に見える(理由)について──ひょっとして古椿(の実)から搾《しぼ》った油なのだろうか。〕

126 :妖魔詩話30 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:56:34.65 ID:7WXFPAHM0
 *  *  *
──この狂歌に書かれている話と民間信仰にまつわる、ほとんど全てが
チャイナから渡来したように見え、日本の木霊の話の大部分は、チャイナに
起源を持つと思える。極東の花の霊と木の精霊のように、まだ西洋の読者に
よく知られていない次のチャイナの話は興味を惹くかも知れない。

 花への愛情の深さで有名な──日本の書物では唐の武三思《ぶさんし》と
呼ばれる──チャイナの学者が居た。彼はとりわけ牡丹を好み、極めて巧み
に根気よく栽培した。[39]
 ある日、たいそう顔立ちの良い娘が武三思の家へ来て、奉公したいと懇願した。
彼女が言うには、事情が有って卑賎な仕事を捜さざるを得ないが、文芸の
教育を受けているから、そう言う訳で、出来れば学者への奉公を望んでいる。
美貌に魅せられた武三思は、ろくに調べもせず住み込みで雇った。疑いようも
なく優秀な奉公人である上に、実のところ、諸芸の特徴からどこかの王族の
公邸か大貴族の宮殿で育てられたのだろうと武三思は薄々感じていた。礼儀
の完璧な知識と最高位の婦人だけが教わる洗練された作法を示し、書道、絵画、
あらゆる種類の詩歌を詠む驚くべき手腕を持ち合わせていた。やがて武三思は
想いを寄せ、彼女を喜ばすことだけを考えるようになった。学者仲間や他の重要
な来訪者が家に来ると、お客が待つ間に新しい奉公人をやってもてなさせ、
会った者の皆は雅で魅力的なのに驚いた。

127 :妖魔詩話31 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:56:59.59 ID:7WXFPAHM0
 ある日、武三思は高名な倫理学の師範である偉大な狄仁傑《てきしんけつ》の
訪問を受けたが、奉公人は主人の呼び掛けに応答しなかった。武三思は自分で
捜しに行き、狄仁傑に会わせて褒めて貰おうと望んでいたが、何処にも見付
からなかった。屋敷の中を無駄に捜した後で、武三思が客間へ戻ろうとすると、
不意に前の廊下伝いに音も無く滑る奉公人が目に入った。彼女を呼んで
慌ただしく後を追った。その時彼女は半ば振り返り、背後の壁へ蜘蛛《くも》の
ように張り付いて、彼の到着と同時に後退りした壁へ沈み込み、そうして──
紙に描かれた絵のように平らな──色の付いた影の他に見える物は何も残って
いなかった。しかしその影は唇と目を動かして、囁《ささや》くように話し掛けて
言う──
「畏れ多くもお呼びだしに従わなかったご無礼をお許し下さい……私は人の身に
有る者ではございません──牡丹の魂だけの存在でございます。あなたが
牡丹をそれはもう慈しんで下さいましたから、お役に立つために人の姿をとる
ことができたのです。でも今ここに狄仁傑が来ています──礼節の凄まじい
お方です──この姿をそう長く続ける訳にはいかず……来た所へ帰らなくては
なりません。」
 それから壁に沈み込んで完全に消滅し、むき出しの壁土の他には何も残って
いなかった。そして武三思が再び彼女と会うことは無かった。
 この話は日本で「開天遺事《かいてんいじ》」と呼ぶチャイナの書物に書かれて
いる。

128 :妖魔詩話32 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 19:58:26.60 ID:7WXFPAHM0

[36]3行目の『ふる』の言葉は、二重の役割を果たしている──形容詞の
「古〔い〕」と動詞の「振る」である。『生首』という古い表現(文字通りなら
新鮮な頭)は、切断されてから間が無くまだ血が滲み出す人の頭を意味する。

[37]仮名の「め」でふたつの日本の言葉が書かれている──片方の意味は
「芽」であり、もう一方は「目」である。同様に「はな」の語句も「花」と「鼻」の
どちらの意味にもなる。不気味さで、この短歌は明らかに成功している。

[38]『あやしげ』は「怪しい」「奇妙な」「超自然的な」「疑わしい」の形容詞
『あやし』の名詞形。『影』という言葉は「光」と「陰」の両方を示す──ここ
では二重の暗示に使われている。昔の日本で使われた灯火には椿の実
から採った植物油が使われていた。読者は古椿の言い回しは、椿の妖かし
と同等の表現だと覚えているだろう──椿は古くなった物だけが妖木に
変わると想像された。

[39]牡丹はここで言及する──ある花は日本で非常に尊重された 。8世紀に
チャイナから輸入されたと言われ、今では5百を下らない種類が日本の庭師
によって栽培されている。

129 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2015/05/12(火) 20:04:28.59 ID:7WXFPAHM0
THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES
(天の川縁起その他)よりGoblin Poetryでした。

長かった〜

怪談話では有りませんが、電子書籍およびサイトの奇談のあとがき的な物として
翻訳しました。

ここまでの所を校正してから電子書籍「奇談一」に収録する予定です。
ほぼ同時期にサイト上にも原文と共にアップするつもりです。
たぶん数か月はかかるでしょう。

130 :猫を描いた少年1 ◆YAKUMOZcw.:2016/07/10(日) 18:08:33.89 ID:/sgcWspY0
猫を描いた少年

 遠い遠い昔、日本の田舎の小さな村に、とても善良な
貧しい百姓の夫婦が暮らしていた。子沢山なので、皆を
食わせていくのは非常に厳しいと分かっていた。年長の
息子はほんの十四歳の頃には父親を手伝うのに十分な
丈夫さで、小さな娘達は歩けるようになるやすぐに母親の
手伝いを学んだ。
 だが末っ子の小さな少年は、厳しい労働に耐えられる
ようには見えなかった。彼は非常に賢かった──兄や姉達
よりも賢かったが、かなり虚弱で小柄なので皆は大して
大きくなれないと言い合った。であるから両親は百姓になる
より坊さんになった方が良いだろうと思った。ある日、村の寺
へ連れて行き、そこの人の良い住職に小僧として坊さんの
知るべき全てを教えてくれないかとお願いした。
 老人は親切に男の子に話し、幾つか難しい質問をした。寺の
小僧として男の子を受け入れ、僧職の教育をするのに住職
が同意するには十分に賢い答えであった。
 少年が老僧の教えをすぐに覚えた姿は、ほとんどの事に
従順であった。しかし、ひとつ欠点が有った。勉強の間に猫を
描くのを好み、まったく猫が描かれるべきではない場所にさえ
猫を描く。
 ひとりになる度に猫を描いた。経本の余白や寺の屏風ばかり
ではなく、壁や柱にまで描くのだ。住職は良くない事だと度々
言って聞かせたが、猫を描くのをやめなかった。実のところ、
どうしようもなく描いた。いわゆる「天才絵師」であったが、まさしく
その理由から小僧になるには全くふさわしくなかった──良い
小僧は本で勉強しなくてはならない。

131 :猫を描いた少年2 ◆YAKUMOZcw.:2016/07/10(日) 18:11:58.78 ID:/sgcWspY0
 ある日、とても上手な猫の絵を障子に描いた後、老僧が
厳しく言った──坊や、この寺から直ぐに出て行きなさい。
おまえは決して立派な坊さんにはならないが、ひょっとする
と偉大な絵師になるかも知れない。さて最後にひとつ忠告
をしておこう、心して夢々忘れるでないぞ。「夜中は広い
場所を避け──小さくなっていなさい。」
 少年には住職の言っている事が何を意味しているのか
分からない「広い場所を避け──小さくなっていなさい。」
出て行くために着物の小さな包みを結ぶ間じゅう考えに
考えたが、この言葉を理解できず、さようならの他にそれ
以上住職と話すのを恐れた。
 とても悲しそうに寺を出て、どうしたものかと思案を始めた。
まっすぐ家に戻れば、住職の言いつけに従わなかったと父に
お仕置きをされそうで帰るのは怖かった。不意に5里ほど
離れた隣村にとても大きな寺が有るのを思い出した。その寺
には何人も坊さんが居ると聞いていたので、そこへ行って
小僧として使ってもらうようにお願いしようと決心した。
 さてその大きな寺は閉鎖されたのだが、少年はこの事実
を知らなかった。妖怪が坊さん達を怖がらせて追い払い、
その場に取り憑いたのが閉鎖された理由である。その後、
何人かの勇敢な武士が妖怪退治に夜の寺へ行ったが、再び
生きた姿を見せることは無かった。この事を少年に話す者は
まったくいなかった──したがって坊さん達にやさしく向かえ
られる期待を抱いて村までの道を歩ききった。
 村に着いた頃には既に辺りは真っ暗で皆は寝床に就いて
いたが、大通りの別の端の丘の上に大きな寺を見付け、その
寺の中に灯りが見えた。孤独な旅人に宿を乞うよう仕向ける
ため妖怪は灯りを灯すものだと、物語を語る人々は言う。少年は
すぐに寺へ行き扉を叩いた。中からの音は無い。再び叩きに
叩いたが、まだ誰も来ない。しまいにそっと扉を押すと、あいて
いるのが分かってすっかり嬉しくなった。そうして中へ入ると灯り
が燃えているのが見えた──だが坊さんは居ない。

132 :猫を描いた少年3 ◆YAKUMOZcw.:2016/07/10(日) 18:14:49.96 ID:/sgcWspY0
 すぐに何人かの坊さんがやって来るはずだと思い、
座って待った。そのとき寺の中のそこらじゅうが灰色
の埃と、厚く張った蜘蛛の巣に覆われているのに気が
付いた。ならばここを綺麗にしておくため、坊さん達には
きっと小僧が居るのが好ましいだろうと思った。どうして
何もかもをこんなに汚れるにまかせているのだろうと
不思議であった。けれども最高に嬉しかったのは、猫を
描くのに具合がいい何枚かの大きな白い障子であった。
疲れてはいたけれども、ただちに筆箱を捜し、見つけた
1本にいくらか墨をひたして猫を描きはじめた。
 障子にかなり多くの猫を描くと、とてもとても眠気を感じ
はじめた。ちょうど障子のひとつのそばの位置で、眠る
ために横になろうとすると、不意にあの言葉を思い出した。
『広い場所を避け──小さくなっていなさい。』
 寺はとても広くたったひとり、この言葉のように思えた──
それをすっかり理解はできなかったけれども──はじめて
小さな恐れを感じはじめ、眠るために『小さな場所』を捜す
決意をした。引き戸の付いた戸棚を見付けて入り、閉じ
こもった。それから横になると早速眠りに落ちた。

133 :猫を描いた少年4 ◆YAKUMOZcw.:2016/07/10(日) 18:17:29.66 ID:/sgcWspY0
 夜がとても更けてから、極めて恐ろしい物音で起こ
された──格闘の物音と甲高い鳴き声であった。小さ
な戸棚のすき間越しに除いてさえも恐ろしいほど酷い
もので、恐怖のためじっと横になったまま息を殺した。
 寺にあった灯りは消えていたが酷い物音は続き、より
酷くなって寺全体が揺れた。長い静寂の時が過ぎても、
少年はまだ動くには恐ろしかった。朝日の光が小さな
戸のすき間から戸棚の中に射し込むまでじっとしていた。
それから非常に用心深く隠れ場所から出て周囲を見回
した。最初に見た物は血に覆われた寺じゅうの床であった。
それから見たのは真ん中に横たわるその死体、巨大なぞっ
とする鼠──鼠の妖怪──牛より大きい。
 しかし誰が、いや何がそいつを殺せたのだろう。人や他の
生き物は見掛けなかった。突然、少年は前の晩に描いた
全ての猫の口が血で赤く濡れているのを発見した。そうして
妖怪は彼の描いた猫に殺されたのだと知った。そしてまた、
博識の老僧がどうして彼に言ったのか初めて理解した。
「夜中は広い場所を避け──小さくなっていなさい……」
 その後、少年はたいそう有名な絵師となった。彼の描いた
猫のいくつかは、まだ日本の旅行者のために陳列されている。

134 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/07/10(日) 18:26:56.63 ID:/sgcWspY0
Japanese Fairy Tale SeriesのTHE BOY WHO DREW CATSでした

ほぼ1年ぶりの投稿ですね。
これまで翻訳した話は何とか電子書籍にしたもののサイトへの掲載は
まだになっています。

実は仕事が忙しくなって自宅であんまり時間がとれなかったりします。
翻訳の方は仕事の休憩時間にできるので、久しぶりに投稿できたという
訳です。

やるやる詐欺になっている話も多々ありますが、まあぼちぼち手を付けて
行こうと思っています。

135 :団子をなくしたお婆さん1 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/02(火) 10:33:04.21 ID:EwduH00s0
団子をなくしたお婆さん

 遠い遠い昔、笑ってお米の粉で団子を作るのが
好きな、おかしなお婆さんがいた。
 ある日、夕食のために幾つかの団子を用意して
いるとその内のひとつを落としてしまい、それは
転がって小さな台所の土間の穴に入って消えた。
お婆さんはそれをつかもうと穴に向かって手を下ろ
すと、突然地面が開いてお婆さんは中に落ちた。
 かなりの距離を落下したが少しも怪我をしないで、
再び足で起き上がると、まるで彼女の家の前のよう
な道の上に立っているのを見た。下の方はかなり明
るく、たくさんの田んぼが見えたが誰もいなかった。
どうしてこうなったのかは言い様が無い。しかしそれ
は、お婆さんが異世界へ落ちたように見える。
 落ちた道はひどい坂になっていたので、いたずら
に団子をさがしたあとで、坂道を転がり落ちて遠く
へ行ったのに違いないと思った。彼女は叫んで道を
駆け降りた──
「団子や、団子──わたしの団子はどこじゃー」
 しばらくすると道端に石地蔵が見えたので話しか
けた──
──「お地蔵様わたしの団子を見掛けませんでしたか」
 地蔵の答えは──
──「ああ私のそばを団子が転がって道をくだるの
を見ましたよ。けれどあんまり先の方には行かない方が
よろしいですよ、下の方には邪悪な人食い鬼が住んで
いますから。」
 しかしお婆さんはただ笑って、さらに道を叫び
ながら走って下った──「団子や、団子──わたし
の団子はどこじゃー」そして別の地蔵の像まで
来て訊ねた──
──「親切なお地蔵様、わたしの団子を見掛けませんでしたか」
 そして地蔵は言った──
──「ああ少し前にあなたの団子が行くのを見ま
したよ。けれど、もっと先へ走るべきではありませ
んよ、下の方には邪悪な人食い鬼がいますから。」
 しかしただ笑って走って、なおも叫んだ──「団子
や、団子──わたしの団子はどこじゃー」
 そして三番目の地蔵の元に来て訊ねた──
──「愛しいお地蔵様、わたしの団子を見掛けま
せんでしたか」
 しかし地蔵は言った──
──「今は団子の話をしないでください。こちらに
鬼が来ました。ここでわたしの袖の影にしゃがんで、
音を立てないでください。」

136 :団子をなくしたお婆さん2 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/02(火) 10:39:04.53 ID:EwduH00s0
 間もなく鬼がやって来て、ごく近くに止まって地蔵
にお辞儀をして言った──
──「こんにちは地蔵さん。」
 地蔵も非常に丁寧にこんにちはと言った。
 それから鬼は、突然うさんくさいやり方で空気を二三
回嗅いで叫び出した──「地蔵さん地蔵さん、どこ
かで人の臭いがしますぜ──違いますか。」
──「ああっ」地蔵が言う──「たぶん勘違いでしょう。」
──「いやいや」再び空気を嗅いでから鬼が言っ
た。「あっしには人の臭いがしますぜ。」
 そうこうするうちにお婆さんは笑いがこらえ
きれなくなった。
「てへへ」──すると鬼はすぐさま地蔵の袖の影へ
大きな毛深い手を伸ばして彼女を引っ張り出した。
──まだ笑っている「てへへ」
──「あっはっは」鬼は高笑い。
 それから地蔵が言った。
──「この人の良いお婆さんをどうするつもりですか。
傷つけるんじゃありませんよ。」
──「そのつもりです。」と鬼は言った。「でも連れて
帰ってあっしらの飯を作らせましょう。」
──「てへへ」とお婆さんが笑った。
──「たいへんよろしい」と地蔵は言い──「けれど
本当にやさしくしなくてはなりませんよ。そうでなければ
わたしはとっても怒りますからね。」
──「まったく傷つけるつもりはありません」と鬼は
約束して「毎日ちょっとしたあっしらの仕事をさせる
だけですよ。さようなら地蔵さん。」
 それから鬼は道沿いに遠くの広くて深い川まで
連れて来ると、そこには1艘の舟があった。彼女を
舟に乗せて川向こうの家へ連れて行った。それは
とても大きな家であった。すぐに台所へ案内すると
自分と一緒に暮らす他の鬼のいくらかの食事を料理
しろと言った。そして小さな木のしゃもじを渡して言った──
──「あんたが釜に入れる米はいつでも1粒だけに
しなくちゃならね、それでこのしゃもじで水の中の米
1粒をかき混ぜると、その米粒は釜一杯になるまで
増え続けるぜ。」

137 :団子をなくしたお婆さん3 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/02(火) 10:45:13.03 ID:EwduH00s0
 そうしてお婆さんが鬼の言う通りきっちり米粒1
つを釜に入れてしゃもじでかき混ぜ始めると、かき
回す度に1粒が2粒に──それから4粒──そして
8粒──それから十六、三十二、六十四、さらに
もっと。しゃもじを動かす度に米は大量に増えて、
大きな釜はほんの数分でいっぱいになった。
 その後、おかしなお婆さんは長い間鬼の家で
過ごし、彼とその友達全部の食べ物を料理した。
鬼はけっして傷つけたり怖がらせたりせず、仕事は
──鬼がどんな人間が食べるよりもたくさん食べる
から、とてもとても大量の米を料理しなくてはならな
くても──魔法のしゃもじのおかげでまったく簡単
であった。
 けれども寂しくなって自分の小さな家へ帰り団子
を作りたいと、いつでも強く願うようになった。そして
ある日、鬼達みんながどこかへ出掛けた隙に逃げ
出そうと思った。
 手始めに魔法のしゃもじを取って帯の下にすべり
込ませ、それから川へ下りていった。舟がある所ま
で誰にも見られなかった。乗って押して、とても上手
く漕げたのですぐに岸から離れた。しかし川はとても
広く、鬼の全員が家へ戻った時に川幅の4分の1も
漕げていなかった。
 彼らは飯炊きも魔法のしゃもじも見つからないのに
気が付いた。すぐに川まで走って下りると、お婆さん
がとても速く漕ぎ去るのが見えた。おそらく全く舟の
無い場合には彼らは泳げない、そしておかしなお婆
さんを捕まえるには別の岸へ着く前に川の水全部を
飲み干すしか方法が無いと思った。そうして跪きとても
早く飲み始め、お婆さんが半分を渡り切る前に水が
すっかり低くなった。
 しかしお婆さんは水がとても浅くなるまで漕ぎ続け
て、鬼が飲みやめると歩いて渡った。それから櫂を
落として魔法のしゃもじを帯から取り出して鬼に向かっ
て振り、鬼の全てが吹き出すようなおかしな顔を作った。
 しかし彼らは笑った瞬間に飲んだ全ての水を吐き出
さずにいられず、そうして川は再びいっぱいになった。
鬼は渡ることができず、お婆さんは無事に向こう岸まで
渡り、できるだけ速く道を走って逃げた。再び自分の
家を見つけるまでけっして走るのをやめなかった。

138 :団子をなくしたお婆さん4 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/02(火) 10:45:55.24 ID:EwduH00s0
 その後、彼女はいつでも好きなだけ団子が作れる
のでとても幸せであった。それにお米が作れる魔法の
しゃもじを持っている。彼女は近所や旅人に団子を売っ
て、かなり短い期間で裕福になった。

139 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/02(火) 10:57:36.51 ID:EwduH00s0
Japanese Fairy Tale Seriesの
THE OLD WOMAN WHO LOST HER DUMPLING
でした。

Japanese Fairy Tale Series(日本お伽噺シリーズ)
の中で小泉八雲の著作は全5話ありまして、下約
では有りますが、これで全ての翻訳が終わりました。

化け蜘蛛>>2-5
ちんちん小袴>>12-18 >>24
若返りの泉>>19-23
猫を描いた少年>>130-134
団子をなくしたお婆さん>>135-139

140 :衝立の乙女1 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/06(土) 17:42:22.81 ID:vOf6jRBb0
衝立の乙女

※お伽噺百物語で語られていた。

 日本の老作家、白梅園露水は言う──[1]
「漢土と日本の本には──古い時代と現代のどちら
にも──あまりの美しさに、見る人へ不思議な影響力
を及ぼす絵についての多くの物語が語られている。かつ
そのような美しい絵に関して──花や鳥や人物に関わらず、
有名な絵師によって描かれた絵は──生き物の形や
人物の描写されたその物が、描かれた紙や絹から自身
を切り離し様々な行ないをくり広げる──まるで自身で
本当に生きているかのようになる──と付け加えられて
いる。古い時代から誰でも知っているこの種の物語も、
今では再現しないだろう。しかし現代にあってさえ菱川
吉兵衛によって描かれる絵──『菱川の肖像画』──の
名声は国中で広範囲に広まっている。」
 それから続けていわゆる肖像画の1つについて、次の
話を語る。

 トッケイという名の京都の若い学者がいる。以前に室町
と呼ばれる通りに住んでいた。ある晩訪問先からの帰り
道の途中で、中古品を扱う業者の店の前に売り出されて
いる折れの無い1枚の古い衝立に注意を惹き付けられた。
それはただの紙でおおわれた衝立であったが、青年の気
まぐれを捕らえる少女の全身像が描かれていた。聞いた
値段はとても安く、トッケイは衝立を買って自宅へ持ち帰った。


[1]享保十八年(1733年)没。彼が言及した画家は──正確に
は菱川吉兵衛師宣として収集家に知られている──十七世紀
後半に活躍をした。経歴は染め物師の見習いから始まり、芸術家
として名声を博したのは1680年頃、浮世絵という図画の流派を
創始したと言われているかも知れない。とりわけ菱川は風流(優雅
な作法)と呼ばれる物──上流階級まわりの生活の様態──の
描き手であった。

141 :衝立の乙女2 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/06(土) 17:46:52.08 ID:vOf6jRBb0
 自室で独りになって衝立を見直すと、絵は最前よりもずっ
と美しく思われた。写実的なのは明白である──十五六歳
の少女がいきいきと描かれ、髪の毛、目、まつ毛、口は細部
の隅々まで描かれ、讃えきれない迫真性と上品さで完成され
ている。まなじり[2]は「愛を求める芙蓉のよう」であり、唇は「丹花
の微笑みのよう」で、若い顔は欠けること無く言葉にならない
可愛らしさであった。真実の少女が肖像を描かれた通り愛らし
ければ、心を奪われずに見られる男はいないであろう。それに
誰かが話しかければ応えを返してくれそうに──姿がいきいき
として見えたので──彼女がこの通り愛らしいのに違いないと
トッケイは信じた。

 彼は熱心に絵を見つめ続けたので、次第にその魅力の虜に
なっていく自分を感じた。「こんなにも芳《かぐわ》しい乙女が」
独りつぶやく「本当にこの世に存在できるのだろうか。」ほんの
僅かな間でさえ(『一瞬であっても』と日本の筆者は言う)この腕
に抱けるなら、どんなに喜んで我が命を──いや千年の命を─
─差し出すだろう。ひと口で言えば絵に恋をした──そこに描か
れた人物以外のどんな女も決して愛せないと感じるほど激しく恋
をした。それでもまだ生きているなら絵とそっくりなままでは居られ
ない、おそらく彼が生まれる遥か前に埋葬されているだろう。

 それにもかかわらず、この見込みの無い恋慕の情は日々に大
きくなっていった。食べることも眠ることもできず、かつては大い
に彼を喜ばせた研究も心を占めることはできなかった。何時間も
絵の前に座って、それと話しをしようとした──他の何もかもを、
おろそかにするか忘れていた。そしてしまいには病気になった─
─そうして病は死に向かうものだと自覚した。

 さてトッケイの友人の中に、絵と若者の心にまつわる不思議な
事象に精通したひとりの高潔な学者がいた。トッケイの病気の知
らせを受けたこの歳をとった学者は、お見舞いに来て衝立を見る
と何が起こったのか理解した。それから問われたトッケイは友人
に何もかも認めて明言した──「こんな女性が見つけられなけれ
ば死んでしまいます。」

142 :衝立の乙女3 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/06(土) 17:50:18.24 ID:vOf6jRBb0
 老人は言った──
「あの絵は菱川吉兵衛が描いた──魂を込めて描
いた。描かれたその人はもうこの世にはいない。だが
菱川吉兵衛は外観と同じように心を描き、彼女の魂
は絵の中で生きていると言われている。だからあんた
は彼女を物にできると思う。」
 トッケイは寝床から半身を起こして熱心に語り手を
見つめた。
「彼女に名前を与えなくてはならん」老人は続ける─
─「そして毎日絵の前に座って、絶えず彼女へ向ける
想いを維持しながら、与えた名前で優しく呼び続けなく
てはならん、返事をするまで……」
「返事をするのですか」息が止まるほど驚いて恋する
者は大声を出した。
「ああ、そうだ。」助言者は応える「きっと返事をしてくれ
るよ。しかし返事をした時の贈り物として、これから言う
物を用意しなくてはならん……
「命を捧げますよ」トッケイは叫んだ。」
「いいや」老人は言った──「百件の異なる酒屋で買っ
た1杯の酒を贈る。すると彼女は酒を受け取るために
衝立から出て来る。それから先どうするかは多分彼女
が話してくれるだろう。」
 これだけ語ると老人は出て行った。彼の助言はトッケイ
を絶望から目覚めさせた。ただちに絵の前に自分を座ら
せて少女のその名前を──(何という名前かは日本の語
り部は言い忘れている)──何度も何度もとても優しく呼
んだ。その日も次の日もその次も、それは返事をしなかっ
た。しかしトッケイは信じる心や忍耐を失わず、そして何日
かたったある晩突然その名前に返事があった──

「はい」
 それから急いで素早く百件の異なる酒屋からの酒の少し
が注がれ、小さな盃に謹んで贈られた。それから少女は
衝立から歩み出し、部屋の畳の上を歩いてトッケイの手から
盃を受け取るために膝をついた──心地よく微笑み訊ねる──

143 :衝立の乙女4 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/06(土) 17:54:43.93 ID:vOf6jRBb0
「どうしてそんなに愛せるのでしょう。」
 日本の語り部は言う「彼女は絵よりも更に美しく──
指の爪の先まで美しく──心と気性も美しく──世の中
の他の誰よりも愛らしかった。」トッケイがどう質問に答え
たのかは記録されておらず、想像しなくてはならない。
「でも、すぐに飽きておしまいになりませんか」と訊ねる。
「生涯決して」断言した。
「その後は──」彼女は主張し続ける──日本の花嫁は
1回の人生の愛だけでは満足しないからだ。
「七生暮らすため」彼は懇願した「お互いに、共に誓約しま
しょう。」
「もしもつれない仕打ちでもなさいましたら」彼女は言った
「衝立に帰りますよ。」

 ふたりはお互いに誓約した。思うにトッケイは良い青年だっ
たのであろう──花嫁は決して衝立には戻らなかったのだ
から。彼女が占めていたその場所には空白が残っていた。

 日本の筆者は声を大にして言う──
「どうしてこのような事は、滅多に起こらないのだろう。」


[2]『目じり』とも書かれる──目のかどの外側。日本人は(古い
ギリシャと古いアラビアの詩人のように)髪、目、まぶた、唇、指
等々の特別な美しさを表現する多数の奇異で上品な言葉と喩え
を持っている。

144 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/08/06(土) 18:02:21.11 ID:vOf6jRBb0
Shadowings(影)よりThe Screen-Maidenでした

トッケイにどういう字をあてるかは未定です
原典のお伽百物語を探すか、他の複数の翻訳をあたって考えるか
まだ決めていません。

145 :人形の墓1 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/02(金) 19:57:53.72 ID:KoOkbeVE0
人形の墓

 万右衛門は屋内の子供をなだめて食事をさせた。
彼女は十一歳くらいで、知的で、哀れなほどおとなし
く見えた。名前は稲《いね》、『生えている米』を意味
するが、か弱い細さは名前にふさわしく見えた。
 万右衛門に穏やかに説得されて話を語り始めると、
彼女の声が変わっていくことから私は何か奇妙な予
感がした。高くて細い可愛らしい声で全く抑揚もなく話
した──炭火の上の小さなヤカンの単調な歌のよう
に感情の無い淡々とした声音《こわね》であった。日本
では少女や大人の女が感動的な、あるいは残酷な、
あるいは恐るべき何かを口にする時、まさにこのような
落ち着いた平板な透る声が聞かれるのは希では
ないが、決して何の関心も無い訳ではない。それは感
覚が常に抑制の元に置かれ続けていると意味している。
「家《うち》には6人いました」と稲は言った──「父と母
とかなり年老いた父の母と兄と私と妹でした。父は表具
屋という壁紙職人で、襖に紙を張ったり掛け物の表装を
しました。母は髪結いでした。兄は印鑑彫りの年季奉公
をしていました。
「父と母はうまくやっていて、母は父よりも多くのお金を
稼ぎました。私たちは良い着物を着て良い物を食べ、本
当に悲しいことなど何もありませんでした、父が病気に
なるまでは。
「それは暑い季節の中頃でした。父はいつでも元気で、
私たちは病気が危険な物だとは思いませんでしたし、本
人もそれほどとは思っていませんでした。けれどまさに
その次の日に死にました。私たちは大変に驚きました。
母は以前のようにお客さんを待つため本心を隠しました。
けれどそれほど強くはなくて、そのうえ父の死の痛みは
すぐにやって来たのです。父の葬式から8日して母も死
にました。誰もが驚くほど突然でした。それから近所の人
たちは人形の墓をすぐに作らなくてはと言いました──
つまりそうしなければ私たちの家から他の死人が出ると。
兄はその通りだと言いましたが、言われたことを先延ばし
にしました。たぶん十分なお金が無かったのでしょう、よく
分かりませんが、墓は作りませんでした……」

「人形の墓とは何ですか」と私はさえぎった。

146 :人形の墓2 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/02(金) 20:01:35.69 ID:KoOkbeVE0
「思うに」万右衛門が答える「それと知らずにたくさんの
人形の墓をご覧になっています──ちょうど子供の墓
のような見掛けをしています。同じ年に家族が2人死ぬ
と、必ず3人目もすぐに死ぬと信じられていました。『いつ
も墓は3つ』と言われています。そのように1つの家族か
ら同じ年に2人が葬られた時には、この2人の墓の次に
3番目の墓を作り小さな藁の身代わりだけを棺に入れ
ます──そしてその藁人形の墓には戒名[1]を書いた
小さな墓石を載せておきます。墓地のある寺の坊さんは、
この小さな墓石のために戒名を書いてくれます。人形の
墓を作ることで死が避けられるだろうと考えられています
……では稲の残りを聴きましょう。」

 子供は再開した──
「まだ4人いました──祖母と兄、私と妹。兄は十九歳でし
た。父が死ぬ前にちょうど年季奉公が終わっていましたから、
神様が憐れんでくれたようだと私たちは思いました。兄は
家長になりました。仕事の腕はかなり確かで多くの友人が
いましたから、私たちを養っていけました。最初の月に十三
円稼ぎました──これは判屋としてはかなり良い方です。
ある晩、具合を悪くして帰って来て頭が痛いと言いました。
母が死んでから四十七日たっていました。その晩は食べる
ことが出来ませんでした。翌朝は起き上がれませんでした
──とても高い熱が出て、私たちは出来るだけ良くなるよう
に看病し、夜中に起きて世話もしましたが良くなりませんで
した。病気の3日目に私たちはぎょっとなりました──母と話
し始めたからです。母の死から四十九日後でした──その
日に魂は家を去ります──そして兄は母が呼んでいるかの
ように──『はい、お母さん、はい──もう少しで行きます。』
それから母が袖を引っ張ると言いました。指差して私たちに
呼び掛けました──『そこにいる──そこ──見えないか。』
私たちは何にも見えないと言いました。それから言いました
『すぐに見ないからだよ、今は隠れた──畳の下へ行った
よ。』朝の間中こんなことを言っていました。しまいには祖母
が立ち上がって、足で畳を叩いて母をしかりました──大変な
剣幕でした。『タカ』と言い『タカ、何て悪いことをするんだ。お前

147 :人形の墓3 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/02(金) 20:04:06.34 ID:KoOkbeVE0
が生きていた時はみんな慕っていただろう。意地悪なことは
決して誰も言わなかった。何で今子供を連れて行きたがる、
我が家の大黒柱なのは知ってるだろう。もし連れて行けば、
御先祖様の面倒をみる者がここでは誰も居なくなると知って
るだろう。連れて行けば家名が絶えるのが分かるだろう。オタカ、
それは無慈悲で、恥知らずで、意地悪だよ。』祖母はこのよう
に体全体を震わせて怒りました。それから座って泣き、私と妹
も泣きました。しかし兄は、まだ母が袖を引っ張ると言いました。
日が沈む頃に兄は死にました。
「祖母は泣いて私たちをなでて、自分で作った短い歌を歌いま
した。まだ覚えていられます──

親の無い子と
浜辺の千鳥
日暮れ日暮れに
 袖しぼる[2]

「そうして3番目の墓が作られました──でもそれは人形の墓
ではありませんでした──そして私たちの家の終わりでした。
冬の間親戚で暮らしている時に祖母が死にました。夜中に死に
ました──誰にも知られず、朝方には眠っているように見えま
したが、死んでいたのです。それから私と妹は別れ別れになり
ました。妹は──父の友人の1人の──畳屋に引き取られまし
た。親切にされて、学校にさえ通《かよ》っています。」

「ああ不思議なことだ──ああ困ったね。」万右衛門が呟いた。
少しの間同情の沈黙があった。稲は感謝のお辞儀をして、立ち
去るために立った。草履の紐の下に足をすべらせたので、私は
老人に質問するため彼女の座っていた場所の方へ移動した。私
の意図に気付いた彼女はすぐさま言い様の無い合図を万右衛門
へ送り、彼はちょうど側に座ろうとした私をひき止めることで答えた。
「彼女の願いは」と言う「始めに旦那様がしっかり畳を叩いてくだ
さることです。」
「しかし何故」私は驚いて訊ねた──靴をはかない足の裏に、子供
が正座していた場所の心地よい暖かさの感覚を認識するだけである。

148 :人形の墓4 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/02(金) 20:05:26.33 ID:KoOkbeVE0
 万右衛門は答えた──
「誰かの体で暖められた場所へ座るということは──最初にその
場所を叩いておかなければ──その人自身の人生の悲しみ全て
を別の人が引き取ってしまうのだと彼女は信じています。」
 そこへ私は儀式を行わずに座り、我々は二人して笑った。
「稲、」万右衛門は言った「旦那様はお前の悲しみをお引き受けに
なる。旦那様は」──(万右衛門の敬語を表現する試みは私には
出来ない。)──「他の人々の痛みを理解なさりたいのだ。涙は要
らないよ、稲。」


[1]死後に埋葬される人の仏教徒名は墓に刻まれる。
[2]「両親のいない子供らは浜辺のカモメたちのようだ。夕方から夕
方に袖をしぼる。」『千鳥』という言葉は──多種の鳥に区別無しに
あてられるが──ここではカモメとして使われている。カモメの鳴き
声は、もの悲しさと寂しさを表現すると考えられ、それゆえの比喩。
日本の着物の長い袖は、悲しい時の顔を隠すだけではなく目を拭く
のにも使われる。「袖をしぼる」は──つまり涙でびしょ濡れになった
袖から水気を搾り取るということで──日本の詩ではしばしば表現
に使われる。

149 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/02(金) 20:09:12.58 ID:KoOkbeVE0
Gleanings in Buddha-Fields(仏陀の畑の落穂)より
Ningyo-no-Hakaでした。

この話はハーンが雇った子守の娘から直接聞いた話です。

150 :伊藤則資の話1 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 22:37:22.17 ID:hA+TYjsp0
 山城国は宇治町に、およそ六百年前、平家一門の
末裔で伊藤帯刀則資《いとうたてわきのりすけ》という
名の若い侍が住んでいた。伊藤は男前の人物に愛想
の良い人柄を備えた立派な学者で武芸の覚えも早かっ
た。しかし家族は貧乏で、彼は身分のある武士の間に
後見人を持たなかった──そのため前途はささやかで
あった。文学の研究に己れを捧げ、(日本の語り部が
言うには)「風月だけを友とした」たいそう穏やかな暮ら
し方であった。
 ある秋の夕暮れ時、近所の琴引山と呼ばれる丘で独
り歩きをしていると、同じ路をたどる若い少女が追い越
す事態が起こった。彼女は立派な服を着て、十一か十
二歳くらいに見えた。伊藤は挨拶して言った「じきに日が
落ちますよ、お嬢さん、ここは少々人里から離れていま
す。お訊ねしますが、道に迷われたのではありません
か。」彼女は朗らかな微笑を浮かべて見上げ、否定の言
葉を返した。「いえ、私はこの辺りで宮使いをしていて、
少し先に行くだけです。」
 宮使いという言い回しを使うことから、少女が高位の人
のお勤め中のはずだと知ったが、この付近ではいかなる
貴族も住んでいるとは聞いたことが無かったので、述べら
れた言葉は伊藤を驚かせた。しかし僅かに言った「私は
家の有る宇治に帰るところです。ここはとても寂しい場所
ですから、道中のお供をすることをお許しなさいませんか。」
彼女は申し出を喜ぶように優雅に謝意を表明し、連れ立っ
て歩き道々会話をした。彼女は天気と花と蝶と鳥について、
かつてした宇治での滞在について、出身地である首都の
有名な名所について話した──また新鮮なおしゃべりを
聞いて伊藤にとって愉しい一時があっという間に過ぎた。
やがて道の曲がる所で、若い木々の木立が色濃く影を落
とす集落へ入った。

〔ここで話を語る上での中断が必要なのは、最高に明るく
最高に暑い天気であっても日本の幾つかの田舎の村が
どれほど暗いままか、実際に見ること無しには想像出来な
いからだ。東京それ自体の近隣に、この種の村は多数存
在する。そのような村落から少し離れると家が見えなくなり、
常緑樹の密集した木立の他は視界に入らない。通常は若

151 :伊藤則資の話2 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 22:40:13.75 ID:hA+TYjsp0
い杉と竹から成るその木立は、村を嵐から守り、また様々
な目的での材木も供給する。幹の間を通る余地の無いほど
密集して植えられた木々は、帆柱のように真っ直ぐ立ち、太
陽を遮る屋根のような外観に天辺が混ざり合う。めいめい
に屋根を葺かれた田舎の家は、植え込みの中の明るい場
所を占めその回りを建物の2倍の高さの木々が柵を形成す
る。木々の下では真っ昼間でさえいつでも薄明りで、朝や
夕方の家は半分は陰になっている。このような村のほとんど
が、およそ穏やかとは言えない第一引用を与えるが、透明で
はない暗がり、静寂の他にそれ自体が確かに持つ不思議な
魅力がある。五十や百の住居が在るかも知れないが、誰に
も会わず、見えない鳥がさえずり、たまに雄鶏が鳴き、蝉の
甲高い声の他には聞こえない。蝉でさえこの木立が薄暗く
過ぎるのが分かり微かに鳴くけれども、太陽を愛する物は
むしろ村の外側の木々を選ぶ。時たま──チャカトンチャカ
トンという──見えない折り返しが聞こえると言うのを忘れて
いたが、そのお馴染みの音は大きな緑の静寂の中ではお伽噺
の出来事に見える。静寂の理由は単に人々が家に居ない
ということだ。一部の弱った年長者を除く大人の全ては近隣
の田畑へ行き、女たちは背中で赤ん坊を運び、ほとんどの
子供はおそらく半里より少なくない道のりの最も近い学校へ
行っている。確かにこのほの暗く静まり返った村は、管子《かんし》
の書に記録された不思議な永久化のひとつを眺めるようだ──
「世界の栄養を手に入れた古代人達は何も望まず、世界は
充足していた──彼等は何もせず、全ての物は変えられた
──静寂は底知れず、人々は皆穏やかであった。」〕

……日が落ちて伊藤がそこへ着いた時には村はたいそう暗
く、夕暮れは木々の陰になって茜色を作らなかった。「さて、
ご親切なお方、」子供はこう言って、大通りに面した細い路を
指差した。「私はこの道を行かなくてはなりません。」「あなた
の家まで送ることをお許しください。」伊藤は応え、道を見るよ

152 :伊藤則資の話3 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 22:42:19.77 ID:hA+TYjsp0
りはむしろ感じるようにして共に路を曲がった。しかし少女は
すぐ暗がりにぼんやり見える小さな門の前で止まった──格
子状の門の向こうに住居の灯りが見えた。「ここが」彼女は言
った「私の仕える高貴なお屋敷です。ご親切にこのような遠く
まで道を外れて来て頂いたのですから、お入りになってしばら
くお休みになりませんか。」伊藤は同意した。略式の招待に喜
び、どんな高位の身分にある人がこんな人里離れた村に住
む選択をしたのか知りたかった。時には貴族が祭り事への不
満や政治的ないさかいを理由に、公の生活からこのような方
法で引退するのを知っているが、目の前の居宅の住人の経
歴もこのような物だろうと想像した。若い案内人が開けてくれた
門を通ると、大きく古風な庭に居るのが分かった。造園された
子庭を、曲がりくねった小川が横切るのが微かに見分けられた。
「ほんのしばらくお待ちくださいませ」子供は言って「高貴なご
来訪をお知らせして参ります。」と家の方へ急いだ。それは広々
とした家ではあったが、たいそう古く、異なる時代の様式で建
てられたように見えた。引き戸は閉められなかったが、明りの
灯った屋内は通路の正面に沿って広がる美しい竹の幕で隠れ
ていた。その背後で影が動いた──女の影が──そして突然、
夜の中を琴の調べがあった。軽快で甘美な様は自分の感覚
の根拠がおよそ信じられないほどであった。聴こえた静かで穏
やかな喜びの感覚に心を奪われた──不思議なことに喜びに
は悲しみが混じっていた。女がどうやってこのような演奏を修得
できたのか疑問に思い──演者がそもそも女なのかどうか疑問
に思い──この世の音楽を聴いたのかどうかさえ疑問に思い、
その音色は血に訴える魔法のようであった。

 柔らかな音楽は終わり、ほとんど同時に小さな宮使いが側
にいるのに気がついた。「それでは」彼女は言った「お入り願
います。」彼女に玄関まで案内され、そこで草履を脱ぐと、老
女つまりは侍女長と思われる年をとった女が歓迎のため入口
までやって来た。それから老女は主屋の多くの座敷を通って
広くて照明の行き渡った部屋へ案内し、たくさんの丁寧な挨拶

153 :伊藤則資の話4 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 22:45:31.70 ID:hA+TYjsp0
と共に賓客として栄誉に相応しい席へつくように懇願した。彼
は広間の荘厳さと、不思議な美しさに驚いた。やがて侍女の
数人が菓子を持ってきたが、前に置かれた茶碗と別の器が希
少で高価な技量で所有者の高い地位を示す様式が認められ
た。どんな高貴な人がこの孤独な隠れ家を選んだのか、どん
な出来事がこのような隠棲の願いを触発できたのだろう、ます
ます疑問に思った。しかし、突然の老いた案内人からの問い
かけが思索を中断した。
「あなたは宇治の伊藤様とは違いませんか──伊藤帯刀則資
様。」
 伊藤は同意のお辞儀をした。小さな宮使いには名前を告げ
ておらず、そういった問われ方に驚いた。「どうか私の問いを
無礼とお思いになりませんように。」案内人は続けた。「私の
ような老婆は余計な詮索なしにお伺いします。この家へおいで
になった時、あなたのお顔を知っていると思い、本題に入る前
に全ての疑いを消しておくだけのつもりでお名前を伺いしまし
た。あなたにしばらくお話しすることがございます。あなたは
幾度かこの村を通り抜けていらっしゃいまして、ある朝私たち
の姫君様[2]があなたが行くのをご覧になる事態が起こり、そ
れからというもの昼となく夜となくずっとあなたのことを考えて
いらっしゃいます。実のところ病気になるほど思い続け、我々
はとても心配しています。そうした理由からあなたの名前と住
所を捜す算段をしており、その場所へお手紙を差し上げようと
したその時に──まったく思いがけず──ちいさな小間使いと
共に我々の門までいらしたのです。今あなたにお会いできて、
どれほど嬉しいか言葉にできません、現実にしては余りにも
幸運な出来事に見えます。この出合いは縁結びの神──幸運
が融和する縁を結ぶ出雲の大神──のご好意によってもた
らされたのに違いないと本当に思います。幸運があなたをこ
ちらへ案内した今──このようなご関係の在り方に差し障り
が無ければ──姫君様のお心を幸せにしてあげることを拒否
なさらないでしょう。」

154 :伊藤則資の話5 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 22:48:20.98 ID:hA+TYjsp0
 しばらく伊藤はどう返答すべきか分からなかった。老女の話
が真実なら、並外れた好機が提供されたことになる。強い恋慕
の情だけが貴族の娘自身の意思で、富も如何なる見込みも持
たない無名の浪人の愛情を捜させることができた。一方、女の
弱味で利益を得ることに関心を持って行くのは、立派な男の有
りようではなかった。そのうえ状況は不穏で不可解であった。そ
れでも、こんなに思いがけず訪れた申し出をどうやって辞退する
のか少なからず彼を悩ませた。短い沈黙の後で返事をした──
私には妻も許嫁もいませんし、どんな女との関係も有りません
から何の差し障りも無いでしょう。これまで私は両親と暮らして
いて、結婚のことは一度も話し合いはしませんでした。私が高位
の人たちの間には全く後ろだての無い貧乏な侍だと知って頂く
必要があり、またこんな状態を好転させる幾らかの好機を見つ
けられるまでは、結婚をしたくありません。お申し出は大変大き
な名誉を与えてくれますが、私はまだどのような高貴な姫君の
注目にも値しない己れ自身を知っていると言えるだけです。」
 老女はまるでこの言葉に喜んでいるように微笑んで応えた──
「姫君様にお会いになるまで、決断をなされない方が宜しゅう
ございます。お会いになれば、躊躇いをお感じにはならないで
しょう。お引き合わせ致しますから、これから一緒にお越しくだ
さい。」
 彼女は別の更に大きな客間へと導き、宴の仕度のととのった
上座に案内してから彼の元を離れしばらく独りにした。姫君様
を連れて帰って来ると、初めて女主人を視覚にとらえ、伊藤
は再び琴の調べを聴いたような奇妙で不思議な衝撃と喜び
を感じた。このような美しい存在を夢にも見たことは一度も無
かった。ふわふわした雲を通した月のように、存在が光を発し
て衣服を通して輝くようであり、緩やかに流れる髪は柳の垂れ
た枝が春の微風に色めくようで彼女が動く度に揺れて、唇は
朝露に濡れる桃の花のようであった。視界にとらえた物に伊
藤は当惑した。天の河原の織姫──天国で輝く川に住み機
伊藤は呆けたままで、

155 :伊藤則資の話6 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 22:53:27.02 ID:hA+TYjsp0
↑訂正:[伊藤は呆けたままで、]は削除

を織る乙女──その人を見ていないのだろうかと自問した。
無言で目を伏せ頬を赤く染めた清らかな者に、微笑んだ老
女は振り向いて言った──
「ご覧ください姫様──今までこのようなことを望めそうに無か
ったのに、会いたいと願ったその人は同族の生まれです。こ
のように幸運な事件は、位の高い神々の意志だけがもたらす
ことができるのです。そう思うと嬉しくて涙がでます。」そして声
を出してすすり泣いた。「けれども、それは今」袖で涙を拭い
ながら続けた「あなた方がお互いに固い約束をして──あり得
ないと思いますが、どちらかがお望みにならないと証してくれ
るので無ければ──お二人の婚礼の宴の席が残されている
だけです。」

 比類なき美しさを前に意志は麻痺し舌は縛られ、伊藤は返
す言葉が無かった。侍女達が入って来てご馳走と酒を運び、
婚礼の宴が二人の前で開かれ、誓約は成された。それでも
伊藤は呆けたままで、予期せぬ出来事の驚きと花嫁の美しさ
の不思議にじっと当惑していた。これまで知っていた何物を
も超越した喜びが──大きな沈黙のように──心を満たした。
しかし次第に普段の落ち着きを取り戻し、それから先は当惑
せずに話しを交わすことができると気が付いた。手酌で酒を
飲み、見苦しくはなるが陽気な方法で、気掛かりな疑いと恐れ
について敢えて話した。その間花嫁は、月光のようにじっと目
を伏せたまま掛けられた言葉に頬を染めるか微笑むだけで
返事をした。

156 :伊藤則資の話7 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 22:55:53.04 ID:hA+TYjsp0
 伊藤は老いた従者に言った──
「しばしば独り歩きでこの高貴なお屋敷の存在を知らずに、
私はこの村を通り抜けました。そしてここに入ってからずっ
と、どうしてこの高貴な一族はこのような人里離れた場所を
選んで留まらなければならなかったのか不思議に思いまし
た……姫君様とお互いに誓約を交わした今、私が気高い家
族の名前をまだ知らないのはおかしなことのように感じます。」
 この言葉を口にすると、老女の優しい顔に影がよぎり、こ
れまでほとんど話すことの無かった花嫁は青ざめて痛々し
いほど心配する様子を見せた。幾らかの沈黙の後、老いた
女が応えた──
「これ以上秘密にし続けるのは難しいでしょう、それに我々
の身内にお成りになった今では、どんな状況に置かれてい
るのか真実を知っておくべきだと思うのです。伊藤様、あなた
の花嫁は名高くも不運な三位中条重衡卿の娘とお知りください。」
 この言葉──「三位中条重衡卿」──によって、若い侍は
氷のような寒気が全身の血管を通して脈打つのを感じた。
重衡卿、名高き平家の将軍にして政治家は何百年も土の下
であった。目の前には人々の姿ではなく死んだ人々の影、回
りの何もかも──広間と灯りと祝宴──は過去の夢だと、突
然理解した。
 しかし次の瞬間に氷のような寒気は去り、魅力が帰ってき
て彼の回りで深まるようで恐れは感じなかった。花嫁は黄泉
──死者の黄なる泉の地──から来たけれども、彼の心を
すっかりつかんだ。幽霊と結ばれる者は幽霊にならなくては
ならない──それでも目の前の美しい幻の表情に苦痛の影
をもたらすようなひとつの考えを言葉や外見でさらけ出すよ
りは、むしろ一度ではなく何度も死んだ方がましだと知って
いた。差し出される優しい愛に不安が無かったのは、無情な
意図でもっと旨く騙すこともできたであろうに、有りの儘が語
られたから。しかし、この考えと感情は瞬く間に過ぎ去り、当
たり前に贈られたような不思議な立場を受け入れて、寿永
年間に重衡の娘から選ばれたなら行動していたであろう通り
に振る舞おうと決意した。
「ああ、あの哀れな。」彼は大声を出した「高貴な重衡卿の残
酷な運命については耳にしています。」

157 :伊藤則資の話8 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 22:59:19.46 ID:hA+TYjsp0
「はい」老いた女は応え、話しながらすすり泣いた──「確か
に残酷な運命でした。馬を矢で殺され、ご存知の通りその
下敷きになり助けを求めた時、彼の恩寵で暮らしていた人
達に見捨てられたのです。そうして捕虜とされ鎌倉へ送ら
れ、恥知らずな扱いを受けたあげくに処刑されました。[3]
至るところで平家は捜し出され殺されましたから、妻と子
供──ここにいる貴い乙女──は身を隠しました。重衡
卿死亡の知らせが届いた時、産後の母親には明らかに
大き過ぎる苦痛で、そうして子供は──血族の全てが処
刑されるか姿を消してからというもの──私の他に誰も世
話をする者も無く残されました。まだ5歳でした。乳母であ
った私はできるだけの事をしました。我々は巡礼姿ではあ
ちこち放浪の旅をして年を重ねました……けれど深く悲し
いこの話は場違いですね」乳母は声をあげて涙を拭き取っ
た──「過去を忘れられない老婆の愚かな心をお許しを。
ご覧ください、私がお世話をした小さな乙女は、今や立派
な姫君様にお成りです──我々が高倉天皇の平和な日々
を生きていたなら、素晴らしい運命が約束されていたでし
ょう。けれども願い通りの夫を獲得され、それは最高に幸
せです……しかし時間が遅くなりました。婚礼のお部屋の
用意は出来ておりますから、これから朝までお互いにお好
きなようにお任せしなくてはなりません。」
 彼女は立ち上がり、隣の部屋から客間を隔てる襖を開け
て寝室の座敷へ二人を案内した。それから沢山の喜びと
お祝いの言葉と共に退室し、伊藤は花嫁と共に残された。
 二人で横になると同時に伊藤は言った──
「教えてください、愛する人よ、最初に私を夫にしたいと願っ
たのはいつですか。」
(何もかもが現実と変わらなく見えたので、回りに織り成す
幻への思考はほとんどしなくなった。)
 彼女は鳩が鳴くような声で答えた──
「尊き主人にして旦那様、初めてお会いしたのは養母と出
掛けた石山寺でした。お会いしたその時、その瞬間から世

158 :伊藤則資の話9 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 23:02:50.47 ID:hA+TYjsp0
界が変わりました。けれどあなたが覚えていらっしゃらない
のは、私達の出合いは現在ではなく、あなたの現世ではな
い遠い遠い昔のことだからです。その時からあなたは多くの
死と誕生を通過して多くの麗しい体をお持ちになりました。
けれども私は今ご覧の通りいつまでもこのままで、あなた
への大きな願いのため、別の体を得ることも別の存在状態
になることもできませんでした。愛しいご主人にして旦那様、
私は幾世代をも通してお待ち申しておりました。」
 そして新郎はこの不思議な言葉を聴いても決して恐れる
こと無く、人生にこれ以上は無い、つまり来たるべき人生に
おいて彼にまつわる腕の感触と優しく包み込む声を聞く以上
の望みはなかった。

 しかし寺の鐘の響きが、夜明けの近いことを知らせてき
た。鳥達はさえずり、朝の風は全ての木々をざわつかせ
た。突然老いた乳母が婚礼の部屋の襖を押し開けて叫ん
だ──
「私の子供達、お別れの時間です。日の光の下では一瞬
であっても取り返しがつきませんから、一緒には居られま
せん。お互いに別れを告げなくてはなりません。」
 言葉も無く伊藤は立ち去る用意をした。伝えられた警告
を漠然と理解し、全ては自分の運命と観念した。彼の意志
は影のような花嫁の喜びを望む、それ以上は持たなかった。
 彼女は珍しい彫刻のされた小さな硯《すずり》を手に渡し
て言った──
「若き主人にして旦那様は学者ですから、このささやかな
贈り物を蔑みはなさりませんでしょう。古いのでおかしな
作りをしていますが、光栄にも高倉天皇の好意により父へ
贈られました。そういった理由からだけでも貴重な物だと
思います。」
 伊藤はお返しに、梅の花と鶯を表現した銀と金の象眼
細工で飾られた刀の笄《こうがい》を形見として受け取る
ようにと懇願した。
 それから小さな宮使いが庭を通る案内をしに来て、養母
と一緒に花嫁が敷居まで同行した。



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