怪談:妖しい物の話と研究


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奇談
1 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2014/08/04(月) 15:16:03.69 ID:XRRvBaIb0
【出版依頼】
【著者】ラフカディオ・ハーン
【翻訳編集】小林幸治
【予定価格】100円

小泉八雲の「怪談」に収録されていない、霊的な話や不思議な話を収録して
電子書籍にします。

話の画像はいつでも募集してます。謝礼はカラー2000円、モノクロ1000円、
著作権は絵師に残り、私に利用権を与え、著作権者は他所で利用しても良い
という方向です。

2015/03/09修正と追記
内容を追加した改訂版の無料アップデートはKindleの規約上不可能であると分かりました
14話程度で1冊作り3巻の電子書籍にする予定です
最後に全話まとめて1冊作り、計4冊にしようかと思います

159 :伊藤則資の話10 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 23:05:18.00 ID:hA+TYjsp0
 彼が別れのお辞儀をするために石段の下へ回ると同時
に老女が言った──
「次は亥の年の、ここへいらしたのと同じ月の同じ日の同
じ刻限に再びお会いしましょう。今年は寅の年、十年待っ
て頂かなくてはなりません。しかし言ってはならない理由
から、二度と我々はここで会うことはできず、立派な高倉
天皇と父と身内の多くが暮らす京都の周辺《あたり》に行
っております。平家の皆あなたがいらっしゃるのを祝福す
るでしょう。お約束の日には駕籠《かご》[5]をお送り致します。」

 伊藤が門を潜った頃には村の上では星が燃えるようで
あったが、開けた道に出ると静かな畑のかたまりの先か
ら夜明けの光が見えた。胸の中には花嫁からの贈り物を
携えていた。声の魅力はずっと耳に残っている──それ
でも確かめるように指で触った形見が存在しなければ、
夜に夢を見た記憶であって人生はまだ自分の物だと言い
聞かせることができた。
 しかし自ら死を運命づけたことに少しも後悔の念は起こ
らないと確信し、別離の苦しみだけが、幻の前に繰り返す
べき季節の移ろいを思うと悩ましかった。十年……その年
までの日々が何と長く見えることか。不可解な延期の解明
は望めない、死者の秘密のやり方は神々だけが知っている。

 何度も何度も独り歩きで、伊藤は琴引山の村を訪れ、今
一度過ぎ去りし面影との遭遇を漠然と望んだ。しかし夜でも
昼でも影になった路地の素朴な門を見つけることは二度と
無く、夕焼けの中を独り歩く小さな宮使いの姿を認めること
は二度となかった。
 用心深く問いかけられた村人達は、彼が化かされている
のだと思った。かつて身を落ち着けて暮らした高位の者は
無く、彼が言うようなどんな庭もこの近隣には存在しないと
言った。しかし彼が話す場所の近くに、かつて大きな仏教寺
院があって墓地の墓石の幾つかはまだ見ることができる。
伊藤は密集した雑木林の真ん中で慰霊碑を見付けた。古代
のチャイナの様式のそれらは苔と地衣類に覆われていた。
その上に彫られた文字は、もはや解読不能であった。

 奇妙な体験について伊藤は誰にも話さなかった。しかし友

160 :伊藤則資の話11 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 23:07:23.86 ID:hA+TYjsp0
人と親族は、すぐに見える姿と態度の大きな変化を認めた。
医者は体の病気ではないと診断したけれども、日に日に顔色
は青ざめやつれていき、動く時は影のようであった。独りで物
思いに耽るのはいつものことであったが、以前に喜びを与え
た何もかもに──名声の獲得を望んでいたであろう文学の研
究においてさえも──関心が無いように見えた。母親へは──
結婚がかつての大望を刺激し人生への興味を甦らせるかも
知れないと考えていたが──生きている女とは結婚しない誓い
を立てたと言った。そして月日はのろのろと過ぎて行く。
 とうとう亥の年が来て季節は秋になったが、伊藤は好きだっ
た独り歩きはもはやできなくなっていた。寝床から起き上がる
ことさえできなかった。原因は誰にも言い当てることはできな
かったが、彼の生命力は衰退し、眠っていると死んでいるのと
間違えられるほどとても深くとても長く眠った。
 そのような眠りから、ある明るい夕方、子供の声に驚かされ、
見ると側には十年前に消えた庭の門へと案内した小さな宮使
いがいた。彼女はお辞儀をして微笑み言った「今夜あなたは新
居のある京都に近い大原でお迎えされ、駕籠の用意がされて
いますとお伝えするよう命じられました。」それから彼女は消えた。
 伊藤は日の光とは無縁の呼び寄せなのだと知っていたが、
その伝言は身を起こし母親を呼ぶ力に気づくほど彼を喜ばせた。
それから初めて婚礼の話を語り、貰った硯を見せた。それを棺
に入れてくれるように頼んだ──それから死んだ。

 硯は彼と共に埋葬された。しかし葬儀の前に調べた専門家が
言うには、それは宝安年間(AD1169年)に 製作され、高倉
天皇の時代に生きた作者の刻印がなされていたそうだ。

161 :伊藤則資の話12 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 23:09:24.99 ID:hA+TYjsp0
[1]豪邸の使用人。

[2]姫(王女)と君(元首、主人、主婦、領主、貴婦人等々)
の単語を合成された、ほとんど翻訳できない敬称。

[3]重衡は首都防衛の──その頃平《たいら》(つまり平
家)隊が支えていた──勇敢な戦いの後、源《みなもと》
軍の指揮官義経に奇襲され走らされた。家長という名前
の兵士は弓の名手で重衡の馬を射倒し、重衡はもがく動
物の下へ落ちた。彼は別の馬を連れて来るよう従者へ叫
んだが、その男は逃げた。重衡はそれから家長に捕らえ
られ、ついには源族の頭領頼朝に引き渡され檻で鎌倉に
送られることとなった。そこで様々な辱しめを受けた後、一
時思い遣りの有る待遇を受けた──漢詩によって頼朝の
残酷な心さえ感動させられた。しかし次の年には、清盛の
命によって行われた戦に反抗した南都の仏教僧の要請で
処刑された。

[4]これは刀の鞘に添えられた1組の金属の棒に与えられ
た名前で、箸のように使用する。それは精巧に装飾される
場合も有る。

[5]輿の一種。

162 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 23:13:28.11 ID:hA+TYjsp0
THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES
(天の川縁起その他)よりThe Story of Ito Norisukeでした。

割と長い話でしたので、日本語がおかしくなっている所もちらほら
有りますが、その辺は校正段階で修正しましょう。

163 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/13(火) 23:29:39.21 ID:hA+TYjsp0
>>151
×第一引用
○第一印象

164 :振袖1 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/17(土) 21:25:23.65 ID:rbAKAE6Q0
振袖

 最近主に古着屋が入った小さな商店街を通って
いる時、1件の店の前に吊るされた豊かな紫の色
合いの振袖つまり長い袖の着物に気が付いた。
それは徳川の時代に身分の高い淑女に着られて
いたかのような着物であった。私はそれに付いた
5つの家紋を見るために立ち止まると、同時にかつ
て江戸に破壊を引き起こしたと言われる同様な着
物のこの伝説が記憶に甦った。

 二百五十年近く前、将軍の都の裕福な商人の
娘がどこかの寺の祭に参加している最中に、人
混みの中から著しい美貌の若い侍を見付けて
すぐさま恋に落ちた。不運なことに従者を通して
彼が何処の誰であったか知る前に雑踏の中に姿
を消した。しかし彼の姿は鮮明なまま──服装
の細部にいたるまで──記憶に残っていた。その
時の若侍が着ていた晴れ着は、若い娘のそれ
よりはるかに鮮やかで、この美貌の見知らぬ者の
上衣は夢中の乙女には驚くほど美しく見えた。布
地と色が同じ着物に同じ家紋を付けて着れば、
遠からず好機に見付けて貰えるかも知れないと
空想した。
 そういう訳で、その時代の流儀に従ったとても
長い袖の付いたこのような着物を作り、たいそう
大事にした。出掛ける時はいつでもそれを着て、
家に居る時は部屋に吊るして名も知らぬ恋人の
姿をそれに重ね合わそうとした。時にその前で何
時間も──夢を見ながら、打って変わってさめざめ
と泣きながら──過ごすことが有った。そして神
仏に若い男の愛情が得られますようにと──しば
しば日蓮宗の祈願、南無妙法蓮華経と繰り返し
──祈った。
 しかし二度と若者に会うことは無く、絶望したま
ま葬られた。埋葬の後、これほど彼女が大事に
した長い袖の着物は家族が住む地区の仏教寺院
に納められた。昔の習慣では、このように死者
の衣服を処分した。

165 :振袖2 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/17(土) 21:29:16.46 ID:rbAKAE6Q0
 その着物を住職が良い値段で売れたのは、高価
な絹とその上に落ちた涙の跡が残っていなかった
からだ。買ったのは死んだ淑女と同じくらいの歳の
娘であった。着たのはたった1日である。 それから
病気になり、おかしな行動をし始めた──若い美貌
の男の幻に取り憑かれ、愛する余り死にそうだと
大声を出した。そして少しの間の内に死んで、寺は
長い袖の着物の2度目の奉納を受けた。それは再
び住職に売られ、再び若い娘が所有し1回だけ着
た。それから彼女もまた病気になって、美しい影の
話をし、死んで葬られた。そして着物は三たび寺へ
納められ、住職は驚き怪しんだ。
 それにもかかわらず、不運な衣服を敢えてもう
1度売る試みをした。もう1度それは娘に購入され、
もう1度着られ、着た者は恋い焦がれて死んだ。
そして着物が寺へ納められたのは4回目であった。
 住職は行いにおいて何か邪悪な影響が有った
のだと確かに感じ、小僧達に境内で火を焚いて
着物を燃やすよう命じた。
 そのように彼らは火を焚いて着物を投げ入れた。
しかし絹が燃え始めると同時に突然、その上に
眩《まばゆ》い炎の文字が──南無妙法蓮華経
の祈願の文字が──現れて、これが次から次へ
と巨大な火の粉のように寺の屋根へ跳ねて寺に
火が点いた。
 燃える寺の残り火はやがて隣接する屋根へ
落ちて、すぐに通り全体が炎上した。それから
海風に煽られ更に遠くの通りへ破滅的に吹き付
けて、大火は通りから通りへ、町から町中へ、
ほとんど都市全体を焼き尽くすまで広がった。
そしてこの惨事は明暦元年(1655年)の1月
18日に発生し、東京では振袖火事──長い袖
の着物の大火──としてまだ記憶されている。

166 :振袖3 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/17(土) 21:29:56.18 ID:rbAKAE6Q0
 紀文大尽と呼ばれる物語の本によれば着物
が作られる元となった娘の名前はお雨《さめ》
と言い、百姓町の酒屋の彦右衛門の娘であっ
た。その美貌から彼女は麻布小町[1]とも呼ば
れていた。同書が言うには、言い伝えの寺は
本郷地区の本妙寺と呼ばれる日蓮宗の寺で、
着物の家紋は桔梗花である。しかし物語には
多くの異説が有り、美貌の侍が実は人では
なく湖──不忍の池──に以前住んでいた
龍や水蛇の変化《へんげ》と主張するから私
は紀文大尽を信用していない。

167 :振袖4 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/17(土) 21:31:21.09 ID:rbAKAE6Q0
[1]千年以上たっても小町、つまり小野小町の名前
はまだ日本では有名である。当時の最高の美人で
あり、干ばつの時に雨を降らすなど詩歌によって天
をも動かすことができた、とても偉大な詩人である。
多くの男が彼女を愛し、虚しく愛に殉じたと多くの人
は言う。しかし若さが衰えると不運に見舞われ、極
度の貧困へと落ちぶれた末に物乞いとなり、しまい
には京都に近い街道の広場で死んだ。見付けられ
た悪臭漂うボロ布のまま葬るのは恥ずべきことと
考えられ、貧しい誰かが死体を包むための使い古
しの夏の衣(帷子《かたびら》)を提供し、嵐山の近く
今でも旅行者には「帷子の地」として示される地点
へ埋葬された(帷子ノ辻)。

168 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/09/17(土) 21:46:21.17 ID:rbAKAE6Q0
In Ghostry Japan(霊的日本にて)より
Furisodeでした。

注釈に有る小野小町の晩年については諸説有る
内のひとつと考えて下さい。

昔の日本では女性の怨霊を鎮めるために美人の
称号を贈る場合が多々有りましたので、怨霊になっ
てもおかしくないエピソードや祟りを疑われる事件
(大火等の災害)が有ったのかもしれません。

169 :和解1 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/04(火) 19:47:25.85 ID:soxkgzCk0
和解

※原話は今昔物語と題された稀覯本で見付かるだろう。

 京都に若い侍がいたが、主君の没落により貧困へと落ち
ぶれ、家を出て遠く離れた藩の領主に仕えざるをえない
自分に気が付いた。首都の勤めをやめる前に、妻を離縁
した──気立ての良い美しい女であった──別の縁組み
をした方が出世の道が開けるとの信念があった。それから
とある名家の娘と結婚し、誘いの有った藩へ伴って行った。

 しかしそれは若さに由来する無分別な時期と辛い貧困の
経験から、侍はこうして軽率に投げ捨てた優しい愛情の
価値を理解できなかった。再婚が幸せな物である証しは
無く、新しい妻はきつく身勝手な性格で、すぐに京都の日々
への哀惜を想うあらゆる原因を見つけ出した。それから
最初の妻をまだ愛していることに気が付いた──これまで
2番目に対してできた愛よりも強く──そして、どんなに
不条理で、どんなに恩知らずな行いであったかと感じ始
めた。心が平穏なままでは居られないほど自責の念に
かられ、次第に後悔は深くなっていった。見捨てた女の
思い出が──優しい話し方、微笑み、華奢で、可憐な
仕草、申し分の無い忍耐力──次々と甦った。貧困に
苦しむ日々、家計の助けにと夜も昼も機を織る彼女を
時々夢に見る、もっと頻繁に、取り残された小さな荒れ
果てた部屋に独り座って着古した着物の袖で涙を隠す
姿を見た。公務の時間でさえ思考は彼女へと彷徨《さまよ》
い、どうやって暮らしているのか、何をしているのか自問
するのであった。彼女は別の夫を受け入れられないし、
許しを請えば決して拒まないと心の何処かで確信して
いた。そして京都に戻れるならすぐに彼女を捜し出そうと
決心した──それから許しを乞い、連れ戻して、男として
できる償いなら何でもする。しかし何年かが過ぎた。
 とうとう領主の公務の任期が満了し、侍は自由になった。
「愛する者の元へ今戻ろう。」自分に誓った。「ああ何と
無慈悲な──彼女を離縁するとは何と愚かであったこと
か。」(子供のできなかった)2番目の妻を実家へ返し、

170 :和解2 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/04(火) 19:53:09.63 ID:soxkgzCk0
京都へ急ぎ、以前の連れ合いを捜しにすぐ出かけた──
旅装束に着替える暇さえ惜しんだ。

 彼女がかつて住んでいた街へ着いた頃には、夜は更け
ていた──九月十日の夜──都は墓場のように静かで
あった。しかし明るい月が何もかもを明瞭にしていて、家
は苦もなく見付かった。それは寂れた外観をしていて、
高い草が屋根まで伸びていた。雨戸を叩いたが、誰の
返事も無かった。戸がしっかりと締められていないのが
分かり、それを押し開けて入った。居間は畳が無く空っ
ぽで、敷き板の隙間から冷たい風が吹き、ボロボの床の
間の壁の裂け目から月が輝いていた。他の部屋は荒れ
果てた様相を呈していた。見たところ家には全く人が住ん
でいないようであった。それでも侍は住居の更に端にある
別の座敷のひとつ──妻のお気に入りの休憩場所で
あった、とても小さな部屋──を訪ねる決心をした。閉じ
られた襖に近寄ると、中から漏れる灯りを認めて驚いた。
襖を脇へ押しやると、そこに──行灯の灯りで針仕事を
する──彼女が見えて喜びの叫びを上げた。その瞬間
に目が合い、満面の笑みをたたえて彼女が挨拶をした
──ただ訊ねる──「お帰りなさい、いつ京都へ、真っ
暗な部屋ばかりですのに、どうしてここがお分かりに成っ
たのでしょう。」月日が経っても変わっていなかった。
記憶に残る極めて好ましい彼女と同様に、清楚で若く
見えた──しかし、どんな思い出よりも甘い驚き喜ぶ
声の調べが届いた。
 それから嬉しそうに旁へ座り全てを話した──自分
のわがままをどんなに後悔したことか──彼女が居
なくてどんなに惨めであったか──絶えず気にかけ
ずにはいられなかったこと───どんなに長らく償い
を望んで計画していたか──彼女を抱きしめながら
何度も何度も赦しを求めた。彼女は心に望まれるまま
の愛する優しさで答えた──自責の念は全部しまう
よう懇願した。間違いです、妻として相応しくないので
はと常々感じていたのだから、考えてくれるなら自身
を赦すべきですと言った。別れたのは貧乏なだけだと
知っていたけれども、一緒に暮らしている間はいつも

171 :和解3 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/04(火) 19:54:55.07 ID:soxkgzCk0
優しくしてくれたと、彼の幸福を祈ることを決して止め
なかった。たとえ償いを話す理由が有ったとしても、
この名誉な訪問は身に余る償いです──ほんの束の
間でも、このようにまた会うよりも大きな幸せがありま
しょうか「ほんの束の間だと」彼は嬉しそうに笑って答
えた──「むしろ7度生まれ変わってもと言ってくれ、
最愛の者よ、おまえが禁じないなら儂はいつも一緒に
暮らすために戻って来る──いつも──いつも。二度
と別れるようなことは無い。今は財産と仲間が有る、
貧乏を恐れる必要は無い。明日、儂の荷物を持って
来よう、お前に付き添う使用人も来る、一緒にこの家を
綺麗にしよう……「今夜は」すまなそうに付け加える
「このように──着替えさえせずに──遅くなったのは、
おまえを愛する余りだと、会ってこれを伝えるべきだっ
た。」この言葉に彼女は大変嬉しそうにして、お返しに
離れた時から京都で起こった全てについて語った──
自身の不幸は話しから外し、やんわりとはぐらかした。
2人は夜遅くまでお喋りをして、それから彼女は南向き
のもっと暖かい部屋へ案内した──それは前の時の
婚礼の部屋であった。「この家には手伝いをする者は
誰も居ないのか。」彼女が寝床の支度を始めたので聞いて
みた。「いいえ」そう答えて元気に笑い「私には使用人を
雇う余裕が有りませんでした──それでずっと独りで
暮らしてきました。」「明日、沢山の使用人を持つことに
なる」と言った──「良い使用人達だ──何の不自由も
ない。」2人は休むために横になった──お互いに話す
ことが多過ぎて眠らなかった──過去と現在と将来の
ことを灰色の夜明けになるまで話した。それから、知ら
ぬ間に侍は目を閉じて、眠った。
 目が覚めた時、日の光が雨戸の隙間を通って流れ込
んでいて、朽ちかけた床の裸の板の上に寝転んでいる
自分に気が付きすっかり驚いた……夢を見ていただけ
なのか。いや、彼女はそこに──眠って……彼女の上
にかがみこんで──見て──悲鳴を上げた──寝てい
る人に顔が無かったからだ……目の前には経帷子だけ
で包まれた女の死骸が横たわる──死体は僅かに骨が
残されたとても痩せ細ったもので、長い黒い髪がもつれ
ていた。

172 :和解4 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/04(火) 19:56:14.53 ID:soxkgzCk0
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ゆっくりと──日の下で震えながら気分を悪くして立っ
ていたから──氷のような恐怖は、とても耐え難い絶望、
とても残酷な苦痛を生じ、あざ笑う疑惑の影を掴んだ。
近所のことは知らないふりをして、敢えて彼女が暮らして
いた家への道で訊ねることにした。
「あの家には誰も居ません。」訊ねられた者は言った。
「以前は何年か前に都を離れた侍の奥様の物でした。
侍がここを去る前に別の女と結婚するために離縁され、
大いに心を痛めそれで病に成りました。京都に身寄り
は無く、世話をする人も居らず、その年の秋に亡くなり
ました──九月の十日に……」

173 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/04(火) 20:02:09.04 ID:soxkgzCk0
Shadowings(影)よりThe Reconciliationでした

カッコで囲まない部分の言葉遣いが悩みどころですね。
ですます調か伝聞調で統一するべきですが、微妙に
混じってます。

174 :茶碗の中1 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/11(火) 21:39:03.65 ID:lX0r3yKt0
茶碗の中

 これまでに何処かの古い塔の階段を登ろうとして、暗闇
から突き出て蜘蛛の巣が張った端の何も無い暗闇の中心
に居る自分に気が付いたことが有るだろうか。あるいは、
何処かの海岸沿いの切り立った崖に沿って進んだ曲がり
角のギザギザになった行き止まりの縁で自分を発見した
だけの経験が有るだろうか。このような経験の価値は─
─文学的見地から──感覚を覚醒させる力と、それが記憶
された生々しさによって証明される。
 さて、奇妙にも日本の物語の本に収録された、ほとんど
同様な感覚の経験を生じる確かな作り話の断片が存在
する……おそらく作者は不精で、おそらく出版者と仲たがい
をしていて、おそらくは突然小さな茶伏台から呼び出され
ずっと戻っていない、おそらく死んで中途半端に筆が止
まった。しかし死を免れない人には、どうしてこれが未完成
のまま残されたのか、決して語ることはできない……私は
代表的な実例を選んだ。

  * * *

 天和3年1月4日──つまり百二十年くらい前──中川
佐渡守が新年の訪問をする道中で、江戸の本郷地区に
ある白山の茶店で行列を止めた。一行がそこで休憩する
間、お供の1人──関内《せきない》とよばれる若党[1]─
─がたいそう喉の渇きを感じて大きな湯飲みにお茶を満た
した。茶碗を唇まで上げたその時、突然透き通った黄色い
お茶の中に自分ではない顔の映像、つまり映り込みを認
めた。驚いて周囲を見回したが、近くには誰も見つからな
かった。お茶に現れた顔は、髪型から若い侍の顔のようで、
妙に明確で美男子であった──少女の顔のように優美で
ある。そして目と唇が動くことから生きた顔が映っている
ようであった。この不可解な幻影に当惑した関内は、お茶
を捨てて注意深く茶碗を調べた。それには、どんな種類の
工芸的なカラクリも無い、かなり安物の湯飲みであると
確認できた。別の茶碗を見付けて満たすと、またお茶の
中に顔が現れた。それから新しいお茶を注文して再び
茶碗を満たすと、もう一度奇妙な顔が現れた──今度は

175 :茶碗の中2 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/11(火) 21:42:27.33 ID:lX0r3yKt0
嘲《あざけ》る笑いが有った。しかし関内は自分が怯える
のを許さなかった。「お主が誰であろうと」彼は呟《つぶや》
いた「これ以上惑わせないだろうよ。」──それから顔ごと
全部お茶を飲みほして道を行き、幽霊を飲み込んだの
だろうかと訝《いぶか》しく思った。

 同じ日の夕方遅く中川候の屋敷の当直の最中、関内
は音も無く座敷にやって来た余所者に驚いた。この
余所者は豪華な着物を着た若い侍で、関内の正面へ
勝手に座ると若党に会釈で挨拶して観察した──
「拙者は式部平内《しきぶへいない》と申す──今日
初めて会った……見覚えは無いか。」
 かなり低いが、よく通る声で話した。そして関内は、
お茶の中で見て飲みほした幻影の整った顔と同じ禍々
しさに気付いて驚愕した。幻が微笑んでいたように、
今それは微笑んでいるが、据わった目で見つめ微笑む
唇の上にはすぐに挑発と侮蔑が浮かんだ。
「いいえ、覚えは有りません」怒りながらも冷静に関内
は返した──「それと、できましたら今この家に立ち
入る許しをどうやって得られたのか教えて頂けませんか。」
〔封建時代の領主の御殿はいつでも厳しく守られて
いて、希に武装した見張り役の許しがたい手抜かり
でも無ければ、公表されずに入場することは誰にも
出来なかった。〕
「ああ、覚えが無いのだな。」訪問者は皮肉っぽく声を
上げて、話しながらごく近くへ摺り寄ってきた。「いいや、
お主は今朝方自分で拙者に酷い怪我をさせたのに、
見忘れたのだな……」
 咄嗟に関内は帯から短刀[2]を取り、激しく男の喉に
突きかかった。しかし刃が物に当たった気配は無かっ
た。同時に侵入者は音も無く部屋の壁に向かって横
に跳び、それを通り抜けた……壁に退出の跡は見当た
らなかった。ただ行灯の紙を通過する蝋燭の光のよう
に横断していた。
 関内が事件の報告を上げると、彼の説明に家臣達は
驚き困惑した。事件のあった時間に屋敷を出入りした
余所者は見当たらず、また「式部平内」という名前は
中川候に仕える誰もこれまで聞いたことが無かった。


 次の夜、関内は非番で両親と共に家に残っていた。

176 :茶碗の中3 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/11(火) 21:44:59.94 ID:lX0r3yKt0
やや遅い時間になって、何人かの余所者が家に呼び声
を掛け、話しが有ると面会を求めていると知らせが有った。
刀を携え玄関まで行くと、そこで戸口の段の前で待つ─
─見たところ何処かの家臣らしい──3人の武士を見い
出した。3人は恭《うやうや》しく関内にお辞儀をし、その
内の1人が言った──
「我々は松岡文吾、土橋文吾、岡村平六と申します。
式部平内様の家臣です。昨夜我々の主人が畏れ多くも
お訪ね遊ばした時、あなたは刀で斬りつけました。主人
は大怪我をし、今は温泉に行って傷の治療に専念せざ
るをえない状態です。されど来月の十六日に帰って参り
ますから、その時は受けた傷に見合った報復を致します……」
 それ以上聞かずに関内は跳び出し、手にした刀で
余所者達を右に左に薙ぎ払った。しかし3人の男は付近の
建物の壁へ跳んで、影のように壁を飛び回り……

  * * *

 ここで古い物語は中断している、話の続きは1世紀の間
に塵となった幾つかの脳内にだけ存在している。
 結末の可能性は幾つか想像出来るが、その内のどれも
1人の西洋人の空想を満足させないだろう。魂を飲み込ん
で起こりそうな結末は読者自身が決定して受け入れるの
が好ましい。


[1]武装した侍の従者はこのように呼ばれた。若党の侍へ
の関係は騎士と地主のそれである。
[2]侍が携帯する2本の剣より短い物。長い方の剣は刀と
呼ばれていた。

177 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/10/11(火) 21:48:54.82 ID:lX0r3yKt0
Kotto(骨董)よりIn a Cup of Teaでした。

この話、冒頭に作り話(fiction)と有りますが、作り話に
しては不自然ということで、色々と想像が膨らみます。

178 :お白洲にて1 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/06(日) 20:26:07.42 ID:dh0IOTnu0
お白洲にて

 偉大な仏教僧である文覚上人は著書の教行信証で言う
──「人々が崇拝するその神々の多くは不公平な神〔邪神〕
であるから、そのような神々は三宝[1]を尊ぶ者達からは崇拝
されなかった。祈りに応えたその神々から恩恵を受ける者達
でさえ、そのような恩恵が後の日になって不幸を引き起こす
と分かるのが常である。」この真実は日本霊異記という本に
記録された話が、良い例となる。

 聖武天皇[2]の時代、讃岐国の山田郡《やまだごおり》と呼
ばれる地区に布敷《ふしき》の臣《しん》という名前の男が住ん
でいた。彼の子供は衣女《きぬめ》[3]と呼ばれる娘の1人だけ
であった。衣女は器量良しでたいそう丈夫な娘であったが、
十八歳になって間もなく国のその地域に流行り始めた危険な
病気にかかった。それから両親と友人達は彼女のために信仰
する疫神にお供え物を捧げ──彼女を救って欲しいと強く願い
──疫神を祀る大変な苦行を行った。
 数日の間昏睡状態で横になっていた病気の娘は意識が戻っ
たある晩、両親に見た夢を告げた。夢に疫神が現れて話した
──「お前の身内はとても熱心に祈り、とても信心深く崇める
から我はお前を助けたいと思う。だが誰か別の者の命を与え
なければそう出来ない。誰でもお前と同じ名前を持つ別の娘を
知っているということはないか。」「そういえば、」衣女は答えた
「鵜足郡《うたりごおり》に私と同じ名前の娘が居ります。」「では
我に示せ」神は言って眠る者に触れた──触れられて1秒も
たたない内に宙へと浮かび上がり、2人は鵜足郡のもう1人の
衣女の家の前に居た。夜中ではあったが、家族はまだ寝床に
入っておらず、娘は台所で何かを洗っていた。「あの娘です。」
と山田郡の衣女は言った。疫神は帯の紅色の袋から鑿《のみ》
のような形をした長く鋭い道具を取り出して家に入り、鵜足郡の
衣女の額に鋭い道具を打ち込んだ。すると鵜足郡の衣女は恐ろ
しく悶え苦しみ床へ転がり、山田郡の衣女は目を覚まし見た夢
を語った。

179 :お白洲にて2 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/06(日) 20:28:50.25 ID:dh0IOTnu0
 しかしながら、それを語ったすぐ後に再び彼女は昏睡に
落ちた。3日の間何が起こっているのか分からないまま
彼女は生き続け、両親は回復を諦めはじめた。それから
彼女はもう1度目を開けて話した。しかし、その瞬間に寝床
から起き上がり狂ったように部屋を見回して、大声で叫び
ながら家を飛び出した──「ここは私の家じゃない──
あなた達は私の両親ではありません……」

 何か奇妙なことが起こっていた。
 鵜足郡の衣女は疫神に打たれた後に死んだ。両親は
大いに悲しみ、菩提寺の住職達は仏教の法要を行い、彼女
の遺体は村の外の野原で燃やされた。死者の世界である
冥土へと降《くだ》った彼女の霊魂は──魂を裁く王──
閻魔大王の法廷へ召喚された。しかし裁司《さばきづかさ》が
彼女に目を投げるや、すぐに大声を上げた──この娘は鵜足郡
の衣女、こんなに早く連れて来るべきではない。すぐに
娑婆界[4]へ送り返し、もう1人の衣女──山田郡の娘──を
呼んで来い。」すると鵜足郡の衣女の霊魂は閻魔大王の前
で呻《うめ》いて異議を唱えた──「大王様、私が死んでから
3日以上に成りますが、今時分なら体は火葬されている筈です
ので、これから娑婆界に送り返されましても私はどうしたら
良いのでしょう。体は灰と煙に変わりました──私には体が
有りません。」「心配には及ばん」恐ろしい王は答えた──
「お前には山田郡の衣女の体を与えよう──彼女の霊魂は、
すぐここへ連れて来るべきだからな。体が焼かれたことについて
は気に病む必要は無い、もう1人の衣女の体の方がかなり良い
と分かるだろう。」話しが皆まで終わらぬ内に、鵜足郡の衣女の
霊魂は山田郡の衣女の体の中で生き返った。

180 :お白洲にて3 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/06(日) 20:31:19.90 ID:dh0IOTnu0

 さて山田郡の衣女の両親は病気の娘が「ここは私の家
じゃない」と大声を上げて飛び出して逃げるのを見た時──
彼女の心は外へ行ったのだと想像して、叫びながら後を
追った──「衣女どこへ行く──ちょっと待ちなさい、お嬢
さん、そんなに走るには病気が重すぎる。」しかし彼女は逃
げて鵜足郡の死んだ衣女の家族の家に来るまで走るのを
止めなかった。その中に入って老いた身内を見付け、泣き
ながらお辞儀をした──「ああ、家に戻れてどんなに嬉しい
ことでしょう……お加減はいかがですか、お父様お母様。」
2人は見覚えの無い彼女が狂っているのだと思ったが、母親
が優しく話して訊ねた──「どちらからお出でになりましたか、
お嬢さん。」「冥土から来ました」衣女は答えた。「死から生還
したあなた方の娘、衣女。でも今は別の体です、お母様。」
彼女は起こったことの全てを語ったが、老いた身内は極めて
怪しみ、何が正しいのかまだ分からなかった。やがて山田郡
の衣女の両親も家へやって来て娘を捜し、それから2人の
父親と2人の母親は共に相談して話を繰り返させ、何度も何度も
質問した。しかし供述の信憑性に疑いようの無いそのような
方法で、彼女はあらゆる質問に答えた。しまいに山田郡の衣女
の母親は、病気の娘が見た不思議な夢を語った後で鵜足郡の
衣女の両親に言った──「私達はこの娘の精神が、あなた方
のお嬢さんの精神だと納得します。されどご存知のように彼女
の体は私達の子供の体ですから、双方の家族が彼女を共有
するのが当然だと思われます。それで今後は両方の家族の娘と
みなすのに賛成するようお願い致します。」鵜足郡の両親は
大喜びでこの提案に賛成し、その後衣女は両方の世帯の財産
を相続したと記録されている。

「この話は」仏教百科全書の日本の著者は言う「日本霊異記の
一巻十二枚目の左側で見付かるだろう。」


[1]三宝(ラテナトゥラヤ)──仏陀と教義と僧侶(訳注:仏法僧)。
[2]8世紀の第2四半期の間統治した。
[3]金色の梅の花。
[4]娑婆界は俗に言う人間界を意味する──人間が存在する領域(訳注:現世)。

181 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/06(日) 20:44:58.43 ID:dh0IOTnu0
A Japanese Miscellany(日本雑記)より
Before the Supreme Courtでした。

原題を直訳すると「最高裁判所前」となりますが、
時代背景を考えると、そのまま使えませんね。

紙の書籍では「閻魔の庁にて」となっている物が有ります。
この題名を拝借すれば良さそうにも思いましたが、私の
頭からは絶対に出て来ない表現だろうという事で見送りました。

182 :天狗の話1 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/12(土) 00:37:20.69 ID:2i2hxR390
天狗の話

※この話は『十訓抄』と呼ばれる古く珍しい日本の本で見付か
るだろう。同じ伝説は興味深い能の舞いの演目を提供し、大会
《だいえ》(大きな会合)と呼ばれた。
 日本で人気の芸術で天狗は一般的にくちばし状の鼻をした翼
の有る人として、あるいは猛禽類として、どちらかで表現された。
異なる種類の天狗もいるが、全ては山に出没する精霊と想像され、
多くの姿を装う能力が有り、時おり烏や鷲や鷹として姿を見せる。
仏教ではマーラ・カーィカスの仲間に天狗を分類するように見える。

 後冷泉《ごれいぜい》天皇の時代、京都に近い比叡山という山
の、西塔寺に住む徳の高い僧侶がいた。ある夏の日、この善良な
僧侶が都への訪問からの帰り、寺のそばの北の大路の道で何人
かの子供が鳶《とび》を虐めているのに出くわした。彼らは罠で捕ら
えた鳥を棒で叩いていた。「ああ、かわいそうなことだ。」僧侶は情け
深く大きな声で言った──「子供達よ、どうしてそれを苦しめるのだ。」
子供の1人が答えた──「殺して羽根を取りたいんだよ。」憐れみに
動かされた僧侶は、持っていた扇子《せんす》と引き換えに鳶をよこす
ように子供達を説得し、鳥を解き放った。重傷ではなかったそれは、
飛び去ることが出来た。

 仏教徒の善行を施せた満足をし、僧侶は歩みを再開した。それほど
遠くまで進まないうちに、道端の竹薮から奇妙な修行僧が出て来て
急いで彼の方へ向かうのが見えた。修行僧は恭《うやうや》しくお辞儀
をして言った──「お坊様、あなたの情け深い親切のお陰で命を拾い、
それで今礼儀正しく謝意を表明したいと思います。」このように自分に
宛てられた口上を聞いて驚いた僧侶は答えた──「本当ですか、これ
までに会ったのを思い出せませんが、どうかあなたが何者なのか教え
て頂けませんか。」「この姿の私に覚えが無いのは不思議では有りま
せん」と修行僧は返した「私は北の大路で狂暴な子供に苦しめられて
いた鳶です。あなたは命の恩人、そしてこの世に命より大切な物は有
りません。それで今何かしらの形で親切のお返しがしたいのです。何
か欲しい物や知りたい事、見たい物が有れば──要するに、私に出来

183 :天狗の話2 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/12(土) 00:38:54.38 ID:2i2hxR390
ることなら何でも──少しばかり備わってきた六心通の力で、お申し
出なされるどんな望みでもほぼ満足して頂けますから、どうかおっしゃっ
て下さい。」この言葉を聞いた僧侶は、天狗と話しているのだと分かり
率直に答えた──「友よ、齢《よわい》七十になる今の私は、長らくこの
世の物事を気にすることを止めています──名声も娯楽も少しの魅力
も有りません。来世についての事だけが気掛かりに思いますが、誰に
も助けて貰えない問題ですから、それについて訊ねるのは無益でしょう。
実のところ1つだけは、望む価値が有ると思っています。私の生涯で悔
やまれるのは、釈尊《しゃくそん》の時代の天竺に生まれなかったため、
聖なる山の霊鷲山《りょうじゅせん》で行われた偉大な説法に参列出来
なかったことです。朝晩の祈祷の時間に、この無念が起こらないで済む
日は有りませんでした。ああ我が友よ、菩薩のように時空の征服が可能
なら、私はあの素晴らしい集会を見られたら、どんなにか幸せでしょう。」
──「おや、」天狗は声を上げた「その敬虔な願いは簡単に叶えられま
すよ。霊鷲山での説法は完璧なまでによく覚えていますから、そこで起
こったことを正確にあなたの前で、何もかも起こったまま再現してあげら
れます。そのような聖なる問題を表現するのは、我々の大いなる喜び
です……この道を一緒に来て下さい。」
 そして僧侶は、丘の斜面の松の間の地へ苦労して案内された。「さて、」
天狗は言った「あなたはここで目を閉じて、しばらくお待ちになるだけです。
法を説く仏陀の声が聴こえるまで開けてはなりません。それから見ること
が出来ます。けれど仏陀が姿を現すのが見えても、どんな形であれ信心
深い感情の影響を許してはなりません──お辞儀や祈りもしてはならず、
『仰《おおせ》のままに』とか『ありがたや』のような、どんな感嘆も絶対にし
ないで下さい。全く話すべきではありません。少しでも崇拝の仕草でもする
なら、私は何かとても不幸なことに見舞われます。」僧侶はこの指示に従う
と快く約束し、天狗は見せ物の用意をするかのように急いで立ち去った。

184 :天狗の話3 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/12(土) 00:42:12.15 ID:2i2hxR390

 日が暮れて暗くなってきたが、老いた僧侶は目を閉じた
まま根気よく木の下で待った。ついに、唐突に声が頭上に
響き渡った──鳴り響く大鐘のような低く明瞭な素晴らしい
声は──正道《しょうどう》を布教する釈迦牟尼仏の声で
あった。それから大きな輝きの中で僧侶が目を開けると、
周囲の全てが実際に霊鷲山の地に変わっているのを認識
した──インドの神聖な山、霊鷲山で時は法華経の頃であっ
た。今では周囲から松は無くなり、宝石の果実と葉を付けた
不思議な輝きを放つ七宝珠の木 が有った──そして大地は
天界から降る曼陀羅華と曼珠沙華の花で覆われ──夜は
芳香と光輝と甘い大きな声で満たされていた。そして中空で
世界の上に輝く月のような、右手に普賢菩薩を左に文殊菩薩
を従える獅子の座(1)に座る祝福された存在を僧侶は見た─
─その前には──星の洪水のように果てしなく宇宙に広がる
──摩可薩と菩薩の軍勢が無数の「諸天、夜叉、龍蛇、阿修羅、
人、人外」を引き連れて集まった。舎利仏が、そして迦葉、阿難陀、
それと共に如来の弟子のことごとくが──そして諸天の王──
更に火の柱のような四方位の王──偉大な龍王──乾闥婆と
迦楼羅も──日と月と風の神──梵天が統べる天界の無数の
輝きが見えた。そしてこれまでの無限のこの栄光の輪よりも比較
にならない遥か先に──祝福された存在の額から放たれる、1条
の光線が時空を貫いたその先まで照らされて──東方の百八十万
の仏陀の畠とその住人の全て──六道のそれぞれに生活する
存在──涅槃に入り寂滅した諸仏の姿まで見えた。これ等と諸天
の全てと夜叉の全てが獅子の座を前にひれ伏すのが見え──
釈尊の前に海の唸りのごとく──無数の群集が法華経を讃える
のを聞いた。その時すっかり誓約を忘れ──正に仏陀そのものの
面前に立つ愚かな夢を見て──愛と感謝の涙を流して礼拝のため
に身を低く投げ出し大きな声で叫んだ「ありがたや……」

185 :天狗の話4 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/12(土) 00:42:39.68 ID:2i2hxR390
 荘厳な光景は地震のような衝撃と共にあっという間に消失し、気が
付くと僧侶は暗闇の中を山腹の草の上に独り跪いていた。それから
無分別にも約束を破ったせいで幻影の喪失を招いたことで、言いよう
の無い悲しみに襲われた。悲しそうに帰途へと歩を返すと、もう一度
妖かしの修行僧が彼の前に現れ苦痛と非難のこもった調子で言った
──「私とした約束を守らずに、不注意にも感情の支配を許したため、
教義の守護者である護法天童が突然ものすごい怒りで天界から我々
の上に飛び降りて強く打ちのめし『どうして汝らは、このように信心深い
者を欺く企《たくら》みをするのか。』と叫びました。すると私が集めた
別の僧徒達は恐れてみんな逃げました。私自身はどうかと言えば翼
の1つを折られました──これで今は飛ぶことが出来ません。」この
言葉と共に天狗は永遠に姿を消した。


(1)訳注:玉座。

186 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2016/11/12(土) 00:45:04.86 ID:2i2hxR390
In Ghostry Japan(霊的日本にて)より
Story of a Tenguでした。

187 :果心居士の話1 ◆YAKUMOZcw.:2017/01/09(月) 14:59:52.38 ID:tWyIpi6/0
果心居士の話

※古い奇書『夜窓鬼談』で語られていた。

 天正時代の頃、京都の北の地域に人々から果心居士
《かしんこじ》と呼ばれる老人が暮らしていた。彼は白く
長いあご髭をたくわえ、いつも神道の神官のような服装を
していたが、仏教の絵を見せ仏教の説法をすることで生計
を立てていた。天気の良い日には、祇園寺の境内へ行っ
て、適当な木に地獄の様々な刑罰が描かれた大きな掛け
物を吊るすのが常であった。この掛け物は全ての物が現実
に見える程の表現で描かれた、たいそう素晴らしい物で、
老人はそれを見に群がる人々に因果応報の教義を説明す
る講話をした──それぞれ異なる苦痛の詳細を、常々持ち
歩いている仏教の杖〔如意〕で指し示し、誰もが仏陀の教え
に続くよう熱心に勧めた。その絵を見て、それについての老
人の説法を聴きに大勢が集まり、時には賽銭を受け取るため
に前へ広げた敷物が、上に投げられて積み重なる銭で覆わ
れて見えなくなる程であった。
 織田信長は、その頃の京都と周辺地方の支配者であった。
荒川という名の家来の1人が祇園寺に出向いている間、そこ
に掛けられている絵を見る機会があり、城に戻ってからそれ
について話した。荒川の説明に興味を覚えた信長は、直ぐに
絵を持って城まで参れと果心居士に命令を送った。
 信長が掛け物を見た時、その鮮やかな仕事に驚きを隠しよ
うもなく、鬼達と拷問される亡者が実際に動いて目の前に出現
し、叫び声が絵の外まで聞こえ、そこに表現された血は実際
に流れているように見えた──絵の具が濡れているなら確か
めるために指を出さずにはいられない程であった。しかし指は
汚れなかった──紙が完全に乾いている証しであった。さらに
さらに驚いた信長は、その素晴らしい絵は誰の作なのかと訊
ねた。これは有名な小栗宗湛《おぐりそうたん》[2]が──百日
の間、毎日斎戒沐浴の儀式を行い、大変な苦行を繰り返して
天啓を得るために清水寺の観音様へ真摯な祈りを捧げた後
に──描きましたと果心居士は答えた。

 その掛け物が欲しいという、信長の明白な気持ちを察知し
た荒川は、大殿様へ献上品として「差し出すか」どうか果心

188 :果心居士の話2 ◆YAKUMOZcw.:2017/01/09(月) 15:03:23.14 ID:tWyIpi6/0
居士に訊ねた。しかし老人は勇敢に答えた──「この絵は私
の全財産で、こいつを人々に見せることではした金が稼げる
のです。今この絵をお殿様に献上すれば、生活の糧を得るた
った1つの手段を自分で奪うことになります。しかしながら、お
殿様がそれを手に入れたいと強くご所望なさるなら、彼から
金百両のお支払いをお願いします。それだけの金子《きんす》
が有れば、多少なりとも儲けの良い稼業に就けるでしょう。さも
なくば、絵を手放すのはお断りしなくてはなりません。」
 この返答に信長は面白くなさそうに沈黙したままであった。し
ばらくして荒川が殿様の耳に何かささやくと、同意してうなずき、
それから果心居士は謝礼の少額の金子と共に退去させられた。

 しかし老人が城を出ると、すぐに荒川は後を追った──汚い
手段で絵を奪うつもりであった。好機が来た、果心居士は町
外れの丘に通じる道をとったのだ。丘の麓《ふもと》の確実に
人気の無い急な曲がり角に差し掛かった時、突然荒川が襲い
掛かって言った──「お前は何故その絵に金百両を要求す
るほど強欲なのだ。金百両の代わりに今から3尺の長さの
鉄を1欠片《かけら》お見舞いしてやろう。」そうして荒川は刀
を抜いて老人を斬り殺し、絵を奪った。
 あくる日、荒川は──果心居士が城を出る前に包んだまま
になっている──掛け物を織田信長へ献上し、すぐに掛ける
よう命令された。しかし広げてみると、全く絵が無いと分かっ
て信長と家来は驚いた──白紙の他には何も無かった。
荒川はどうして元の絵が消えたのか説明できず──故意に
せよ過失にせよ──主君を欺いた責任が有るので罰を受ける
べしとの決定が成された。その結果、少なくない間謹慎をする
宣告を受けた。

 荒川の謹慎期間のほとんどが完了しない頃、果心居士が
北野寺の境内で、有名な絵を見せ物にしているとの知らせ
が届いた。荒川は自分の耳をほとんど信じることが出来な
かったが、その知らせは漠然とした希望と共に、どうにか掛
け物を確保して、それによって先の失敗による汚名が返上
できるかも知れないと予感させた。それですぐに何人かの
身内を集めて寺へ急いだが、到着した頃には果心居士は

189 :果心居士の話3 ◆YAKUMOZcw.:2017/01/09(月) 15:08:09.97 ID:tWyIpi6/0
去ったと告げられた。

 数日後、荒川の元へ清水寺で果心居士が絵を見せて、
それについての説法をしているとの知らせが届いた。荒川
は全速で清水へ向かったが、到着した頃には解散する群集
を見るだけであった──またしても果心居士は姿を消した。
 ある日、予想もしなかった酒屋でとうとう果心居士を見付け
て、そのまま捕らえた。捕まったことに気付いた老人は、ただ
上機嫌に笑って言った──「行きますよ、一緒に、されど少し
ばかり酒を飲むあいだ待ってはくれませんかね。」この要求に
荒川は異議を唱えず、果心居士はすぐさま飲み干したが、野
次馬が驚いたことに酒はどんぶり十二杯であった。十二杯目
を飲んだ後で満足の意を表明したので、荒川はお縄について
信長の屋敷までついて来るよう命令した。
 城のお白洲で果心居士は、ただちに奉行によって吟味され
厳しく叱責された。最後に奉行は言った──「お前が妖しげな
術を使って民を惑わせていたのは明白だ、この罪だけで重罪
に値する。ではあるが、今からあの絵を信長様に謹んで差し
出すなら、この度の罪は大目に見てやろう。さもなくば間違い
なくとても厳しい罰をお前に与えるだろう。」
 この脅しに果心居士は当惑した風に笑って大声を上げた──
「民を惑わす罪を犯しているのは私ではありません。」それか
ら荒川に向き直って叫んだ──「詐欺師はお前だ。お前は
あの絵を献上することで殿様の機嫌を取りたくて、それを奪う
ために私を殺そうとした。確かにそのような不道徳なことが有る
なら犯罪だ。運よく私を殺すことには成功しなかったが、もし
望み通りに事を成していたら、そんな行いをどんな申し開きを
したら許されるのか。いずれにしても、お前は絵を盗んだ。今
私が持っている絵は、ただの写しだ。そして絵を盗んだ後に
なって、それを信長様に献上することについては考えを変え、
自分のために隠しておく計略を思いついた。そうして白紙の
掛け物を信長様に献上し、秘密の行動と目的を隠すために
本物と白紙の掛け物をすり替えることで、私が騙したと嘘を
ついた。本物の絵がどこに有るのか私は知らない。おおかた
お前の仕業だ。」
 この言葉に荒川は怒り心頭に発し、囚人に向かって突進し

190 :果心居士の話4 ◆YAKUMOZcw.:2017/01/09(月) 15:11:02.86 ID:tWyIpi6/0
殴り掛かろうとしたが、警護の者に取り押さえられた。しかし
この突然の怒りの爆発によって、荒川は完全に潔白では無い
と奉行はうっすらと感じた。彼は果心居士にしばらく牢屋に
入っているよう命令し、続けて念入りに荒川を尋問した。目下
の荒川は自然と口が重くなって、この場合は興奮し過ぎて全く
まともに話しが出来ず、どもって矛盾すること自体がことごと
く有罪の徴候を示していた。そして奉行は真実を話すまで
荒川を棒で叩けと命令した。しかし真実を言っているように
見せることさえ容易では無かった。そのため感覚が無くなる
まで竹で打たれ虫の息で倒れた。

 牢屋の果心居士は、荒川に起こった一部始終を伝えられ
て笑った。しかし、少したってから牢番に言った──「お聞き
ください、あの荒川という奴は本当にならず者のように振る
舞いますから、この悪辣な傾向を矯正するつもりで、わざと
罰が下るように持って行きました。荒川は真相を知らなかった
筈ですから、これから私が全ての事が納得の行くように説明
しますとお奉行様にお伝え下さい。」
 それから果心居士は再び奉行の前に連れて行かれ、次の
告白をした──「本当に優れた物なら、どんな絵にも必ず
念が宿り、そういった絵は自分の意志を持って、命を与えた
者や正当な所有者からでさえ切り離されるのを拒否できます。
真に偉大な絵は魂を持つということを証明する数多くの話が
有ります。法眼淵信《ほうげんえんしん》によって襖《ふすま》
に描かれた何羽かの雀は、かつて飛んで逃げて表面を占め
ていた場所が空白のまま残っているのはよく知られています。
また、とある掛け物に描かれた馬が、夜になると草を食べに
よく出掛けたというのもよく知られています。さて、この現在の
状況は、同様に信長様が掛け物の正当な所有者にならなかっ
たがために、御前に広げられた時の絵は自らの意志で紙から
姿を消した、というのが真相だと思います。しかし最初にお願い
した金額──金百両──をお支払いになれば、今は空白となっ
ている紙の上に自然と絵がまた現れるだろうと思います。いずれ
にせよ、やってみましょう。何も危険は有りません──絵が再び
現れなければ、ただちにお金はお返しするのですから。」

191 :果心居士の話5 ◆YAKUMOZcw.:2017/01/09(月) 15:15:54.35 ID:tWyIpi6/0
 この一風変わった主張を聴くと、信長は百両が支払われるよう
命令し、結果を自分で確認しに来た。それから御前に広げられ
たその掛け物は、列席者全員が驚いたことに細部に至るまで
絵が再現していた。しかし色は少し褪《あ》せているようで、亡者
や鬼の姿も以前のように本当に生きているようには見えなかっ
た。この違いに気付いた殿様は、果心居士に理由を説明する
よう求め、果心居士は答えた──「初めにご覧になった時の、
その絵の価値は絵としては計り知れない値打ちでした。しかし
今ご覧なされている絵の価値は、それに支払われた物──金
百両──を正確に表現しています……他に有り得ましょうか。」
この答えを聞いた列席者全員が、これ以上老人に抵抗するのは
無益というより悪い事になると感じた。彼はただちに放免され、
荒川もまた刑罰による苦痛を受けて十分以上に罪をつぐなった
ために釈放された。

 さて荒川には武市という名の弟がいた──やはり信長に仕
える家来である。荒川が打たれ投獄されたことで武市は激しく
腹を立て、果心居士を殺そうと決意した。果心居士は再び自由
の身になったと気が付く間もなく、まっすぐ酒屋に行って酒を
注文した。武市は後から店に入り突進して押し倒し首を斬り落
とした。それから老人に支払われた百両を奪い、武市は頭と
黄金を一緒に風呂敷で包み荒川へ見せるため帰りを急いだ。
しかし風呂敷をほどいて目に入った物は、頭の代わりにただの
空の酒徳利とただの汚物の塊が黄金の代わりであった……
そして頭の無い死体が酒屋から消えた──いつ、どうやって
かは誰も言えなかった──との知らせに兄弟の当惑は深まる
ばかりであった。

 およそ一ヶ月の間は、それ以上果心居士のことは何も聞か
なかったが、ある晩信長候の城の門までの通路で眠り込んで
いる酔っぱらいが見付かったが、そのいびきときたらどれも
遠くで鳴り響く雷のゴロゴロいう音のような大音量のいびきで
あった。家来の1人が、その酔っぱらいは果心居士だと気が
付いた。この無礼な罪によって年寄りはただちに捕らえられ
牢屋へ放り込まれたが、十日と十夜の間絶え間なく眠り続け
た──遠く離れた所まで聞こえる大音量のいびきをずっと

192 :果心居士の話6 ◆YAKUMOZcw.:2017/01/09(月) 15:17:04.82 ID:tWyIpi6/0
かきながら。

 ちょうどこの頃、信長候が死を迎えたのは配下の指揮官
明智光秀の裏切りによる、光秀はすぐさま支配を奪った。
しかし光秀の権力はたった十二日間しかもたなかった。
 さて、京都の支配者となった光秀は、果心居士の事件を
知らされ囚人を眼前に連れて来るよう命令を出した。それ
に応じて果心居士は新しい領主の面前に呼び出されたが、
光秀は好意的に話し、客人を扱うように立派な夕食を出す
べきだと命じた。老人が食事に手を付けた時に光秀は言っ
た──「たいそう酒がお好きだと伺いましたが──一度の
席でいったいどれだけお飲みになれますか。」果心居士は
答えた──「どれだけかはよく分かりませんが、酔ってきた
なと感じた時だけ飲むのを止めます。」それから殿様は大き
な盃[3]を果心居士の前に置いて、家来には老人が望む
ならその度ごとに盃を満たすよう告げた。そして果心居士
は大きな盃を立て続けに十回空にして、お代わりを求めたが、
家来は酒樽が空っぽだと答えた。全ての出席者は、この
飲みっぷりに仰天し、殿様は果心居士に訊ねた「まだ足りま
せんかな、お客人。」「ああ、そうですな、」果心居士が答える
「いくらか満足しています──さて、立派なおもてなしの
お礼に、ちょっとした芸をお見せしましょう。それでは、あの
衝立をよく見ていて下さい。」近江の湖の美しい八つの景色
の描かれた大きな8曲の衝立(近江八景)を指差すと誰もが
その衝立を見た。景色の一つの中に、湖の上遥か遠く一艘
の舟を漕ぐ男を絵師が表現していた──その舟は、衝立の
表面の2センチに満たない空間を占めていた。果心居士は
それから舟に向かって手を振ると、舟は皆が見ている前で
突然向きを変え絵の前景の方へ進み始めた。素早く進み、
近づくに連れて大きく大きくなって、やがて船頭の顔形が
明瞭に見分けられるようになった。さらに舟は近くに描かれ
──どんどん大きくなっていく──ごく近くの距離に現れる
まで。そして不意に湖の水が──絵の外の部屋の中に──
溢れ出して見え、部屋は水浸しになり水が膝の上まできた

193 :果心居士の話7 ◆YAKUMOZcw.:2017/01/09(月) 15:17:49.07 ID:tWyIpi6/0
ので、見物人は急いで着物をたくし上げた。舟が衝立から
すべり出ると──本物の釣り舟である──同時に櫓のキィ
キィきしむ音が聞こえた。部屋の大水はさらに上がり、見物人
が帯まで水に漬かって立ち上がるまで続いた。それから舟
は果心居士のごく近くに来て、果心居士がそれに乗り込むと、
船頭は辺りに回してとても素早く皆から離れはじめた。そし
て舟が遠ざかりながら──絵の中へ引き返すよに見える
と共に──部屋の水は素早く下がりはじめた。舟がはっきり
と絵の前景を通り過ぎるやいなや、部屋は再び乾いた。しかし
描かれた船はさらに描かれた水の上をすべるように現れて
──遥か彼方まで遠ざかり、それに連れて小さくなっていき
──しまいには、どんどん小さくなって沖合いの点にまで
なった。それから完全に消えて、果心居士も一緒に消えた。
日本で再び彼が見られることは決して無かった。


[1]天正時代は西暦1573年から1591年まで続いた。この
話で表現した偉大な指導者織田信長の死亡は1582年に
起こった。
[2]小栗宗湛は十五世紀初頭に活躍した偉大な宗教画家
である。晩年に仏教の僧侶になった。
[3]「どんぶり」という用語の方が、語り部の伝える器の種類
をよく示している。祭りの際に使われるいわゆる盃のいくつか
は、とても大きい──1リットルよりかなり大きな容量の浅い
漆塗りの鉢。寸法の最も大きな物でぐいぐい飲んで空にする
のは、少なからず妙技と考えられた。

194 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2017/01/09(月) 15:29:29.46 ID:tWyIpi6/0
A Japanese Miscellany(日本雑記)より
The Story of Kwashin Kojiでした

ちなみに司馬遼太郎の「果心居士の幻術」という
短編集にほぼ同じ話があります。

ただ若干結末が違います…その辺は司馬遼太郎
が夜窓鬼談を元にしたのか、ハーンの話を元にして
独自の解釈を付け加えたのか確認していません。

果心居士に限らず昔の本に登場する幻術使いは
魅力的なのですが、その術が超能力か、手品か、
催眠術か全くのフィクションかはよく分かっていま
せん。
手品や集団催眠で説明できるという話も有りますが、
幻術使いの奥義書が存在するという話は聞かない
ので謎のままです。


現在も別の話を翻訳中ですが、仕事の休憩時間が
短くなった関係で、今までより公開ペースは遅くなり
ます。

195 :興義和尚の話1 ◆YAKUMOZcw.:2017/05/02(火) 15:57:52.56 ID:xVYmlhaH0
興義和尚の話

※『雨月物語』という題名の収集品より。

 およそ千年くらい前、近江国の三井寺《みいでら》と
呼ばれる大津[1]の有名な寺に興義という名の博識な
僧侶が住んでいた。彼は偉大な芸術家であった。仏教
絵画や美しい風景画、鳥獣画をほぼ同じ技法で描いた
がとりわけ魚を描くのを好んだ。天気が良く寺の務めが
許す時はいつも琵琶湖へ出掛けて漁師を雇い傷つける
こと無く魚を捕まえさせ、それから絵を描けるように水を
張った大きな盥に泳がせるのであった。絵を描き上げて
から可愛がるように餌をやると再び逃がしてやる──自分
自身で湖へ連れ戻すのだ。しまいには遠くから人々が旅
をして見に来るほど、彼の魚の絵はたいそう有名になった。
しかし魚の図案全ての中で最も素晴らしい物は生命によっ
ては描かれず、夢の記憶から作られた。ある日のこと、泳
ぐ魚を見に湖畔に座っていると、興義はうとうとと眠りに落
ちて水の中で魚と遊ぶ夢を見た。目覚めた後でも絵に描け
るほど夢の記憶は鮮明に残っていて、この絵を寺の自室
の床の間に吊るし「夢応の鯉魚」と呼んだ。
 どんな魚の絵でも、興義が売るような説得はまったくでき
なかった。風景や鳥や花の絵など一部は手放さなくもなか
ったが、魚を殺したり食べたりする残酷と言うに足る誰にも
生きた魚の絵を売るつもりは無いと言った。そして絵を買い
たがる者達は皆が魚を食べていたので、金銭による申し出
では彼の心を動かせなかった。

 とある夏に興義は病気にかかり、病んで1週間も経つと話
したり動いたりする力をまったく失い、まるで死んでいるように
見えた。しかし葬儀が行われた後、僅かながら体に温もりが
有るのに門人達は気が付いて、しばらく埋葬を先延ばしにして
死体の様子を見ようと決めた。同じ日の午後、彼は突然息を
吹き返し見守る者達を呼んで訊ねた──

196 :興義和尚の話2 ◆YAKUMOZcw.:2017/05/02(火) 16:00:55.52 ID:xVYmlhaH0
「どれぐらい娑婆を知らないままでいたのだろうか。」
「3日以上になります。」小僧の1人が答えた。「みんなは死ん
だと思って、今朝ご友人と檀家の人達がお葬式にお寺へ集ま
りました。お葬式をしましたが、後になって体が完全に冷たくな
りきっていないと分かって埋葬を先に延ばして、今はそうしたこ
とをとても喜んでいます。」
 興義は満足そうにうなずいて、それから言った──
「すぐにお前達の誰か平助《たいらのすけ》の家へ行って欲しい、
そこで青年達が今の今宴会をしている。──(魚を食べて酒を
飲んでな)──そしてこう言うのだ『我々の主《あるじ》が生き返っ
て、あなたがたがご馳走を残しても良いくらい聞かせたい面白い
話が有るから、遅滞なくお出で願いたい。』……それと同時に」
……興義は続けた……「助と兄弟がしていることを観察するのだ
──言った通り宴会をしていないかどうかな。」
 それからすぐに小僧の1人が平助の家へ行ったが、助とその兄弟
の十郎と従者の掃守《かもり》がちょうど興義が言ったように宴会
をしていて驚いた。しかし伝言を受けると、すぐに3人全員が魚
と酒を残して寺へ急いだ。興義は横になった寝床から離れ歓迎
の微笑みを浮かべ、愛想の良い言葉をいくらか交わした後で助
に言った──
「さて、みなさん、これから訊ねるいくつかの質問に答えていただけ
ますか。はじめに、今日漁師の文四から魚を買わなかったかどうか
お教え願えますか。」
「え、そうです」助が答えた──「しかし、どうしてご存じなのです。」
「しばらくお待ち頂けますか」和尚は言って……「今日の昼一番、ちょ
うどあなたと十郎が碁を始めた頃、その漁師の文四は3尺の魚を籠
に入れて門を入った──そして掃守は桃を食べながら見物していた
──違いありませんね。」
「その通りです」助と掃守は更に驚いて一緒に叫んだ。
「それから掃守は大きな魚を見て」興義は続ける「すぐに購入の同意

197 :興義和尚の話3 ◆YAKUMOZcw.:2017/05/02(火) 16:04:33.76 ID:xVYmlhaH0
をし魚の代金を支払う他に、また皿に載せたいくつかの桃と3杯の酒
を文四に与えました。そして呼び出しに応じてやって来た料理人が魚
を見て褒めると、あなたの注文に応じて刺身にして宴会の用意をしま
した……私が言ったように全くこのようなことが起こりませんでしたか。」
「はい」助は答え「しかし今日の我が家の出来事をご存じなのにはは
たいへん驚きました。どうしてこの事態がお分かりになったのか、お話
し願えませんか。」
「では、これから私の話を」と和尚は言った。「私が死ぬのをほぼ誰も
疑わなかったのをあなたはご存じです──あなた自身、葬式に出席
なさいました。されど3日前、私は重体だと全く思いもせず、弱って高
い熱があると感じて体を冷やしに外気に当たりに出たかったという自覚
があるだけです。そして大きな苦労をして寝床から起き上がり──杖を
支えにして──外へ出たように思います……おそらくこれは空想なの
でしょうが、すぐにあなたはご自身で真相を判断できるでしょう、私は
たしかにそれが起こったように見えたので全てを語ろうと思います……
家の外へ出るとすぐに眩《まばゆ》い空気に包まれてすっかり体が軽
くなっていくのを感じました──狭い巣や籠の中にいた鳥が、そこから
飛び立つような軽やかさです。あてもなく彷徨《さまよ》い湖へたどり着
くと、水は泳ぎたくて堪らなく感じるほどたいへん青く美しく見えました。
私は着物を脱いで飛び込み辺りを泳ぎ始めると、とても速くとても巧み
に泳げるのが分かり驚きました──病気になる前はいつでもたいへん
貧弱な泳ぎでしたのに……馬鹿な夢を話しているとお思いでしょう……
けれどお聞きください……この新しい技を不思議に思っている間、沢山
《たくさん》の美しい魚が下や回りを泳いでいるのに気が付くと、突然彼
らの幸せが妬ましくなりました──何の問題もなくどんなに上手に泳げ
る人になっても、水の中では魚がするように楽しむことは決してできない
のが明瞭なのです。ちょうどその時、前に居たとても大きな魚が水面から
顔を上げて人語で私に語りかけて言いました──『その望みを叶えるの
はとても容易《たやす》い、そこで少しお待ち下さい。』その魚はそれから

198 :興義和尚の話4 ◆YAKUMOZcw.:2017/05/02(火) 16:06:57.74 ID:xVYmlhaH0
視界の外へ下り、私は待ちました。数分後、湖の底からやって来たのは
──私に話し掛けたのと同じ大きな魚の背に乗った──頭飾りを着け
公式な親王の衣を着た1人の男で、その男は言いました──『しばらく
の間魚になって楽しみたいという、あなたの願いを知った竜王様より伝言
を持って参りました。あなたは多くの魚の命を救い、常に生類への憐れみ
をお示しになられているので、今神様はあなたに黄金の鯉の衣装を贈ら
れましたから、水の世界の喜びを堪能できるでしょう。しかし、特に注意し
て頂きたいのは、どんな魚でも食べてはならず、魚から調理されたどんな
食べ物も食べてはならないことです──どんなに素晴らしくてもそれの
匂いの場合があります──また、漁師に捕らえられたり、どんな形であれ
体に傷を受けないよう大いに気を付けなくてはなりません。』この言葉と共
に使者と魚は、下の方へ向かい水の底に消えました。自分を見ると体全体
が黄金のように輝く鱗《うろこ》に覆われたようで──鰭《ひれ》を持っている
のが見えました──私は本当に金色の鯉に変わったのだと分かりました。
嬉しいことに、それからは何処へでも泳げるのだと知りました。
「それから後は、遠くまで泳いで沢山の美しい場所を訪ねたようでした。〔ここ
で物語の原文は、近江の湖の八つの有名な絶景──『近江八景』──を
詠んだ幾つかの詩歌を紹介している。〕時には青い水の上に踊る陽光を
見るだけで、あるいは風から守られた水面に丘や木々が美しく反射した
残像に感嘆するだけで満足していました……とりわけ記憶に鮮明なのが
島の岸辺──沖津島や竹生島──赤い壁のように水に映っていました
……時には道を行く人々の顔が見え声が聞こえるほどぴったりと岸に近付
き、時には櫂の近付く音に驚くまで水の面《おもて》で眠ります。夜には美し
い月光の眺めが有りましたが、一度ならず片瀬の釣り船の松明の火が
近付くのを恐れました。天気が悪い時は、下の方へ潜ります──かなり深く
──千尺までも──そして湖の底で遊びます。しかし二三日楽しくさまよっ
た後で、私は大変な空腹を感じ始め何か食べる物が見付かるのを願って、

199 :興義和尚の話5 ◆YAKUMOZcw.:2017/05/02(火) 16:09:24.90 ID:xVYmlhaH0
この近所に戻りました。ちょうどその時、漁師の文四が釣りをしているのに
出くわし、彼が水の下に垂らした釣り針に近寄りました。良い匂いのする魚
の餌が幾つか付いていました。同時に竜王の警告を思いだして泳ぎ去り、
そして自分自身に言い聞かせました──『いずれにせよ魚に関わる食べ物
を食すべきではない──私は仏陀の弟子なのだから。』それでも少しもたた
ない間に、私の空腹は誘惑に抗いきれないまでになって釣り針の元に戻り、
そして考えました──『文四が私を捕まえたとしても、傷付けはしないだろう
──何せ古い友人なのだから。』私は釣り針を放っておくことができなくなり、
心地よい食べ物の匂いは我慢するには大き過ぎ、一息に飲み込みました。
そうするとすぐに文四は糸をたぐり私を捕まえたのです。私は叫びました
『何をするんです──怪我をさせるつもりですか』──しかし私の声は聴こえ
ていないようで、素早く顎《あご》に紐《ひも》を通されました。それから彼は籠
《かご》に入れた私をあなたの家まで運びました。そこで籠が開けられた時、
あなたと十郎が南の部屋で碁をしていて掃守が──桃を食べながら──
見物しているのが見えました。みんなが私を見に縁側へ出て、そんな大きな
魚を見てあなたは喜びました。私は出来るだけ大きな声で叫びました──
『私は魚ではありません──興義です──興義和尚です、どうか寺へ帰して
ください。』けれどあなたは手をたたいて喜んで、私の言葉には注意を払いま
せんでした。それから料理人は台所へ私を運び、恐ろしく鋭い包丁が横たわる
まな板の上に手荒く投げ落としました。左手で押さえつけ、右手にはあの包丁
を持って──私は大声で叫びました──『どうしてそんな残酷に私を殺せる
のですか、私は仏弟子ですよ、助けて、助けて』しかし同じ瞬間に包丁で切り
分けられる感覚があり──恐ろしい痛み──それから突然目がさめ気が付く
と寺のここに居ました。」

 和尚がこのように話を終えると兄弟は驚き、そして助が言った──「そう言え
ば、我々が見ている間ずっと魚の顎が動いているのに気が付いたのを覚えてい
ますが、誰も全く声は聞きませんでした……これからあの魚の残りを湖へ投げ

200 :興義和尚の話6 ◆YAKUMOZcw.:2017/05/02(火) 16:10:19.38 ID:xVYmlhaH0
込むよう命じるため家に使用人を行かせねばなりません。」

 まもなく興義は病から回復し、より多くの絵を描くまで生きた。彼の死からずい
ぶんと経って何枚かの魚の絵が湖に落ちるということが1度起こったが、魚の姿
がすぐさま描かれた絹や紙の上からひとりでに離れて泳ぎ去ったと語られている。


[1]大津町は──一般に琵琶湖と呼ばれる───近江の大きな湖の岸に位置し、
三井寺は湖水を見下ろす丘の上に建っている。三井寺の起源は七世紀であるが
何度か再建され、現在の建物は十七世紀後半にさかのぼる。

201 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2017/05/02(火) 16:17:54.14 ID:xVYmlhaH0
A Japanese Miscellany(日本雑記)より
The Story of Kogi the Priestでした

人名は原話の雨月物語の通りにしました。
話を雨月物語と比較すると細かいところで意味が違うので
翻訳ミスか英文自体が西洋人向けに改変されているのか
電子書籍やサイトに掲載する前に確認する必要が有ります。

202 :鏡の乙女1 ◆YAKUMOZcw.:2018/12/12(水) 21:27:18.83 ID:3KHt9fPn0
鏡の乙女

 足利幕府の時代、南伊勢の大河内明神の神社は朽ち果てて、その地区の大名
北畠候は戦と諸々の事情から社の修繕の段取りができないのを分かっていた。
その頃、管理の神官松村兵庫は将軍と共に権勢の知られた京都の偉大な大名
細川に助けを求めた。細川候は神官を親切に迎え、大河内明神の状態について
将軍に話しておくと約束した。しかし、いずれにせよ社の修繕を承諾するには相応
の調査と相当な期間無しではできないと言い、事態が落ち着くまで首都にとどまる
よう松村に勧めた。そういう訳で松村は京都へ家族を連れて来て昔の京極地区に
家を借りた。
 この家は立派で広々としてはいるが、長らく人が住んでいなかった。それは不運
の家と言われていた。北東の側には井戸があり、かつての入居者の数人がどんな
原因も不明なままその井戸で溺れ死んだ。けれど松村は神官であるから悪霊を恐
れることは無く、すぐに新しい家によく馴染んだ。

 その年の夏、大きな干魃《かんばつ》があった。何ヵ月も国内の5つの地域に雨
は降らず、川底は乾き、井戸は干上がり、首都でさえ水不足であった。しかし松村
の庭の井戸はほぼいっぱいのまま、その水は──ほのかに青みを帯びた色合いで、
とても冷たく澄んでいて──春まで供給されるようであった。暑い季節の間、都の全
ての地区から多くの人々が水を求めに来て、松村は皆が満足するほど多くの水を汲
むのを許した。それでも水は減るようには見えなかった。
 しかしある朝、近所の屋敷から水を汲みに使わされた若い使用人の死体が井戸
に浮かんでいるのが見付かった。自殺をする理由は想像できず、松村は井戸にまつ
わる数々の嫌な話を思いだして何か見えない悪意を疑い始めた。彼は回りを塀で囲
んでおくつもりで井戸を調べに行き、そこに独りで立っている間水の中の何か生き物
のような突然の動きに驚いた。その動きはすぐに終わり、そして静かな水面に見たと
ころ十九か二十歳くらいの女の姿が明瞭に映っていた。彼女は化粧に熱心なようで、
唇に紅[1]をぬっているのがはっきりと分かった。はじめは横顔が見えるだけであった

203 :鏡の乙女2 ◆YAKUMOZcw.:2018/12/12(水) 21:33:31.04 ID:3KHt9fPn0
が、やがて振り向いて微笑んだ。すぐに彼は心臓に奇妙な衝撃を感じ、そして目眩が
酒の酔いのようにやって来てあの微笑む顔の他はなにもかもが真っ暗になっていっ
た──白く月光のように美しく見れば見るほど美しく下へと引き込む──下へ──暗闇
の底へ。しかし必死の努力で意志を回復して目を閉じた。ふたたび目を開けた時には
顔はいなくなって光が戻り、気が付くと井戸のへりに下向きに覆い被さっていた。あの
目眩以上の瞬間は──あの目の眩む誘惑以上の瞬間は──太陽の上にさえ再び見
ることは無かった……
 家に戻ると身内にどんな事情が有っても井戸に近寄るな、またどんな者にもそこか
ら水を汲むのを許すよう命じた。そして次の日には井戸の回りを頑丈な塀で囲んだ。

 塀が出来てからおよそ1週間後、長らく続いた干魃は風と稲光と雷鳴を伴う大暴風雨
によって破られた──都市全体がそのうねりに揺さぶられ、まるで地震に揺さぶられる
ような途方もない雷であった。三日三晩の間土砂降りと稲光と雷鳴は続き、これまで決
して上がらなかった鴨川の水位が上がり多くの橋を持ち去った。嵐の三日目の夜の丑
の刻の間、神官の屋敷の戸を叩き、入れてくれるよう乞い願う女の声が聞こえた。しか
し松村は井戸での体験による用心から使用人に訴えへの返事を禁じた。彼は自分で戸
口へ行って訊ねた──
「どちら様ですか」
 か弱い声が応えた──
「ごめんください、私です──弥生[2]と申します……松村様にお申し上げしたいことが
ございます──お時間はおかけしません。どうかお開けください……」
 とても用心深く松村が戸を半分開けると、井戸で微笑んでいたのと同じ美しい顔が見
えた。けれど今は微笑みは無く、とても悲しそうな様子であった。
「家に来るんじゃない。」神官は大声をあげた。「お前は人ではなく井戸の者だ……どうし
てこんな邪悪なこころみで人々を欺き滅ぼすのか。」
 井戸の者は宝石がチリンと鳴るような調子の声(玉を転がす声)で答えを紡いだ──
「お話ししたいのは正にその問題でございます……私は決して人を傷付けたくはありま

204 :鏡の乙女3 ◆YAKUMOZcw.:2018/12/12(水) 21:34:21.84 ID:3KHt9fPn0
せんでした。けれど昔から井戸には邪悪な竜が住んでいました。井戸の主でありました
から、その為に井戸は常に満たされていました。ずいぶん昔、そこの水に落ちた私はそ
うして服従することになり、彼には人々の血を飲めるよう私を死へと誘惑させる力が有り
ました。けれど今、天帝が竜に今後は信州領の鳥居の池という湖に住むようお命じにな
り、神々は彼がこの都に戻ることを決して許さないとお決めになりました。そうして今夜
彼が去った後、ご助力の情けを乞いに出ることができました。竜は出発いたしましたか
ら今は井戸にはほんの少ししか水は有りませんので、お捜しになるようご命じなされば
私の体がそこで見つかります。お慈悲へのお礼は必ずいたしますから、滞りなく体を井
戸からお救いくださるようお願いします……」
 そう言って夜の闇に消えた。

 夜明け前に大嵐は過ぎ去り、日が昇ると雲ひとつ無い青空が広がった。朝早く松村は
井戸を捜索させるために井戸の掃除夫を呼びにやった。その時、井戸がほとんど枯れ
ているのが分かり皆が驚いた。それは容易に掃除され、底から非常に古い時代の様式
の髪飾りが幾つかと珍しい形の金属の鏡が見付かった──しかし獣や人の体の痕跡
は無かった。
 しかし松村はその鏡がいくらか不思議に説明を与えるかも知れないと想像したが、そ
れはそういった鏡ごとに自らの魂を持つといった不思議なことがあるからである──そ
れに鏡の魂は女性的である。とても古く見えるこの鏡は汚れで酷く覆われていた。しか
し神官の命令で注意深く磨《みが》かれると、それは貴重なお金をかけて職人の業をつ
ぎ込んだ物だと判明し、裏面には素晴らしい模様が有った──またいくつかの文字も

205 :鏡の乙女4 ◆YAKUMOZcw.:2018/12/12(水) 21:35:12.71 ID:3KHt9fPn0
有った。判別できない文字は有ったが、漢字で表記された日付の一部が「三月三日」
と読み取れた。さて三月は(増える月の意味で)弥生と呼ばれたものだが、三月三日は
祭日で弥生の節句とまだ呼ばれている。井戸の者が「弥生」と名乗ったことを思い出し、
松村は霊的訪問者は鏡の魂以外の何者でもないとほぼ確信した。
 そういう訳で、精霊のために鏡をよくよく考えて扱おうと決心した。慎重に磨き直し再度
銀を塗り直した後で、高価な木で箱を作り家の特別な部屋に受け入れの準備を整えた。
それがうやうやしく部屋へ保管されたのと同じ日の晩、神官が書斎に独りで座ると間も
なく、不意に弥生が自ら彼の前に姿を現した。以前よりも更に愛らしくさえ見えたが、そ
の美貌の輝きが今では真っ白な雲を透して輝く夏の月光のごとく柔らかであった。松村
にうやうやしくお辞儀をした後で彼女は鈴を転がすような甘やかな声で言った──
「こたびは孤独と悲しみよりお救い頂いたお礼に参りました……ご想像に間違いなく鏡
の精にございます。斉明天皇の御代に百済より初めてこちらへ連れて来られ、宮中の
[3]加茂内親王に贈呈され佐賀天皇の御代まで厳《おごそ》かに暮らしました。その後

206 :鏡の乙女5 ◆YAKUMOZcw.:2018/12/12(水) 21:35:43.27 ID:3KHt9fPn0
保元の御代に井戸へ落とされるまで、ずっと藤原氏の家宝となりました。そこで置き去
りにされ大戦[4]の数年の間忘れられました。井戸の主は、かつてこの地域の大部分
をしめる湖に住んでいた邪悪な竜でした。そこに民家を建てるつもりでお上の命令によ
って湖が埋められた後に竜は井戸を占領し、井戸に落ちた時の私を服従させ、多くの
人達を死へと誘うよう無理強いしました。けれど神々は彼を永久に追放しました……さ
て、もうひとつご好意をお願いしたいことが有ります、先の持ち主の家系を継承してい
る将軍義正候へ私を献上して頂きますようお願い申し上げます。お願いします、この最
後の大きなご親切を、それは良いご運を招き寄せるでしょう……けれど災難が迫って
いるとご注進もしなくてはなりません。明日以降この家に居てはなりません、破壊され
ます……」この警告の言葉と共に弥生は姿を消した。

 松村はこの予告を活かすことができた。翌日身内と家財を他所の地区へ移すと、そ
の後ほとんど間を置かず別の嵐が起こり、それは前のより強烈で住んでいた家を押し
流す洪水さえ引き起こした。
 しばらくして松村は細川候の好意により義正将軍との謁見の許しを得て、その不思
議な来歴を記した書と共に鏡を贈った。そうして将軍はこの風変わりな贈り物を大いに
喜び、高価な褒美を松村へ下賜しただけではなく大河内明神を再建するに十分な褒
賞金も与え、鏡の精の予言は成就された。

207 :鏡の乙女6 ◆YAKUMOZcw.:2018/12/12(水) 21:36:11.47 ID:3KHt9fPn0


[1]ベンガラの一種で、今は唇に色を付けるためだけに使われる。
[2]珍しくはあるが、この名前はまだ使われている。
[3]斉名天皇はAD655年から662年まで統治し、嵯峨天皇は810年から842年─
─百済は日本史の初期にしばしば記載されるコリア南西部の古代王国──『内親王』
は皇家の血筋。古代の朝廷の女性には二十五の階級、つまり身分があった──『内
親王』のそれは7番目の位である。
[4]何世紀もの間、皇后と宮中の女官は藤原氏から選ばれた──保元と呼ばれる期
間は1156年から1159年まで続き、言及されているのは平と源一族の間の有名な
戦である。
[5]古い時代の信仰では、あらゆる湖や泉が目に見えない守護者を持ち、時には大蛇
や竜の姿をとると考えられた。湖や池の精霊は一般に『池の主』湖の主と言われた。
ここでは井戸に住む竜に「主」の称号が与えられていると分かるが、真実の井戸の守
護者は水神という神である。

208 :小林 ◆YAKUMOZcw.:2018/12/12(水) 21:41:59.49 ID:3KHt9fPn0
THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES
(天の川縁起その他)よりTThe Mirror Maidenでした。

いや〜久しぶりの追加です。翻訳が終わったのがあと2話あります。
ただ電子書籍にするには、少し長い話をもう1話翻訳する必要が有ったりと
まだまだ色々とやる事があります。
またボチボチとやっていきます。



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